指宿温泉

(第2日目)






 10月だというのに暑い朝だった。気温こそ分からなかったが熱帯夜だったかもしれない。朝風呂は最上階の露天風呂に入ったが、何となくしっくりせず部屋に帰ってきても落ち着かず、そうこうしている内に朝食の時間になり、出掛けたが朝酒も飲む気になれず飯もほんのチョッピリ箸をつけただけでやめてしまった。

 身体も如何ってこともないのだが食が進まなかった。下のフロントで土産を買ってバスに乗り込み9時にはホテルを後にした。日曜日のこの時間なら交通量も多いと思った国道226号線はガラガラで歩道に椰子の木が植えられた坂道を上り始めると、JR指宿枕崎線の下を通り国立病院前交差点を過ぎ、左右に緩やかにカーブして成川トンネルに入り山川にやってきた。

 トンネルと出ると見晴らしのいい所を過ぎ左い緩やかにかなりカーブするとエネオスのガソリンスタンドがある交差点きた。そして橋を渡り坂を上りだすと山川高校前交差点になり、左に高校、右に大成小学校が向き合っていた。

 鰻池を過ぎ、小川交差点に来ると二股になり、左側の道路を走りJR大山駅近くを走り、先ほど別れた道路と合流して500mも行くと長崎鼻入口の信号上の標識に従って直角に左に曲がった。幾らか登り坂になるとその下は指宿枕崎線でその上を通過し二股になった道を右にとってフラワーパークの正面に出てきた。

 T路地を右に曲がり左に大きく緩やかにカーブすると右側には駐車場、左にはお土産屋の店が並んで呼び込みが激しかった。我々の駐車場はかなり前進から一段と低くなっている駐車場だった。

長崎鼻パーキングガーデン

 当園は、昭和30年代長崎鼻周辺において薬草の試験栽培の為の農場として出発したのが始まりです。その後東京農業大学の協力のもと熱帯植物の栽培農場を開設。この付近一帯の明媚な風光を利用しようと山川町役場の協力を得て観光事業としての長崎鼻パーキングガーデンの開発が始まった。

 昭和41年(1966)9月開園、紺碧の海と薩摩富士・開聞岳を目前にする景勝の地に、日本で初めて各種の熱帯植物を屋外で育て、せかいではじめてリスザル、コンゴウインコなどの動物の放し飼いに成功した。入口のこんもりと生い茂るアコウのトンネルを抜けると明るい太陽の下、コンゴウインコ、キツネザル・リスザルの群れが樹間を自由に飛びまわり、水面ではフラミンゴが遊ぶ、世界でも珍しい立体展示の方法を取っている自然公園です。

 園内はジャングルの雰囲気を再現しており、今いる動物や鳥達の中には創立者山本幹夫が数度に渡る熱帯学術探検調査において自らマダカスカルや南米アマゾン川流域等の生息地に踏み入り輸入したものの子孫も含まれている。ワオキツネなど今ではワシントン条約(野生動物保護条約)のほど対象動物になっているものもある。

 当園の先には、浦島太郎伝説に基づいて乙姫様を祭った竜宮神社があり、海亀とは御縁の深いところです。長崎鼻はアカウミガメの上陸する場所であり、毎年夏には産卵の為上陸し、この保護活動にも力を入れている。

 昭和60年(1985)当園に隣接する花畑でキンギョソウの花狩りがスタートし、現在では長崎鼻の風物詩として、おなじみとなっている。

 絶滅の恐れのある動物の保護・繁殖させる目的で平成4年ズーストックセンターを開設、同年8月チンパンジーの飲む麻酔人工繁殖に日本で始めて成功した。平成6年フラミンゴショー会場を新設、フラミンゴショーが始まった。平成11年ジャングルジムワールドがオープンし、熱帯の雰囲気を楽しみながら樹上から東シナ海の絶景を一望できるようになった。

 この公園の誕生の裏には、一つの秘話がある。生まれ育った東京を離れ、縁もゆかりもなかったこの地で事業を始めることになった山本幹夫はその動機をこう語っている。「ガンに苦しみ続けた母が余生はここでと願っていたのに、叶えられないまま亡くなった。だから私が遺志をついで、ここで事業をやることにした」。

夕焼け空に開聞の 影を望みて佇みぬ
手術によりて切り落とす 母の乳房を思わせる
開聞やさし母の山 右にふくらむ中腹の
でばりしところいたいたし 母のしこりの癌なるか
母の乳房を恋すれば 今宵仰ぎし開聞の
山よ幸あれとこしえに なばたく星の光にも
祈りこめてささやきぬ やさしき母さんいつまでも
   (みきお・昭和39年5月・母の日に)

 バスを降りるとドライバー直々の案内で、坂道を下っていった。前方が開けるとそこには正面に最南端の長崎鼻の灯台や、右には開聞岳が全身をさらけていた。左には山川港越しに大隈半島が良く見えた。

 何時もの元気さがあれば突端の磯まで下りて行くのだが、今朝は朝食もろくスッポ取れない状況では、無謀と思える行動は慎み灯台もろくに見ないで戻り、竜宮神社へ向った。

薩摩長崎鼻灯台(竜宮伝説の地)
 
 この灯台は風光明媚なこの地に相応したものにしょうと特別に設計されて、昭和32年(1957)に完成した。大隈半島と薩摩半島に囲まれた錦江湾(鹿児島湾)に出入りする船舶や東シナ海を航行する船舶の道しるべとして、重要な役割を果たしている灯台。

位置 北緯:31度07分25秒・東経:130度35分15秒
光り方 等明暗白光 明3秒 暗3秒
光の強さ 8千5百カンテラ
光の届く距離 13.5海里(約25km)
高さ 地上から灯台頂部約11m、水面から灯火約21m
管理事務所 鹿児島海上保安部(電話)099−805−1002

 この龍宮神社は古事記や日本書紀にある豊玉姫(乙姫様)を祀ってあります。長崎鼻には古くから浦島太郎伝説があり、発祥の地といわれている。古書に「竜宮城ハ琉球ナリ」といわれ、黒潮浮かぶ遙か南の琉球城を彷彿させる。

 この海岸一帯の砂浜には今もたくさんのウミガメが産卵のために上陸します。ウミガメが産卵する場所は近くに豊な漁礁があり、亀にとってもたくさんの餌があること、また、外敵が少なく安全で、孵化したあかちゃん亀が無事に海に戻れるような、砂浜がひろがっていることがあげられる。

 つまり、ウミガメが上陸する海岸は、海の幸を育む豊な自然があることから、昔から漁師や釣人達は海の守り神として亀を大切にしました。亀が魚網にでもかかれば手厚くもてなし、お酒を振舞い海に帰してあげました。こうしたことから神話伝説ともあいまって、浦島太郎や乙姫様(海神の娘)を祀って信仰する風習は日本のいたる所にある。

 長崎鼻の龍宮神社は浦島太郎と乙姫様が出会った縁結びの神様として、また、家内安全・商売繁盛・航海安全の守り神として今も多くの人が参拝に訪れる。

 神社の中も結構散策していたりお参りしている人がいた。時間潰しに暫くブラブラしていたがバスの停まっている駐車場に向かった。行きはタダタダ坂を下るだけだったので何の苦もなかったが、朝飯の少なかったのがこんな所に現れてくるとは夢にも思わなかった。

 バスは階段か車道を歩くわけだが階段を下った。奥にはパーキングガーデンがあるが入口には2羽のオームが止まり木に止まって動かず置物かと思ったが、やっぱり本物で時たま羽や足を動かした。

 集合時間になっても誰も来なかったが10分過ぎになってドライバーが何人かと一緒に来たが、肝心の感じが中々帰ってこなかった。よく聞くとお土産を郵送するというので用紙に書き込みをして遅れただとさ。

 ヤット何とかバスも来た道を戻って、モービルのガソリンスタンドのあるT字路で左折して242号線に入り、開聞岳を正面に見ながら快適に進み信号のない二股で右に入り山麓自然公園やいぶすきゴルフ場を巻くように走り、養豚場そばを走ってJR指宿枕崎線を跨ぎ国道226号線に出た。

 226号線は開聞十町で右折すると、再び242号線で坂道を下ったが30分足らずで池田湖に到着した。1m以上もある電気ウナギやコンクリート製のイッシーと置物のたぬきや彫り物が施してある座卓を眺めて外に出ると道路の先には池田湖の全景が見え、その先には開聞岳が富士山を連想させる姿がパノラマ状態で見える。

 20分ばかりのトイレ休憩を済ませバスは維新ふるさと館へ向った。道は下り坂で間もなく昨日知覧特攻平和記念館から指宿の宿“吟松”へ行く時に通った28号線へはいり、池田小学校や主張所前を通り過ぎ、ウトウトしているとJR指宿枕崎線陸橋を跨いでいた。今和泉の町で指宿岩出の交差点で国道226号線に入った。

 右に青い錦江湾、いくらか霞む大隈半島を眺めながら、左にはJR指宿枕崎線が殆んど隣り合わせのように走り、前之浜駅近くでは貝底川を渡り、喜入寺までは海岸スレスレに走って来た。備蓄タンクは海越しに整列して続いた。ここで道路は二股になり、海岸沿いに走ると右側には“いきいきふれあい広場”があって、八幡川を渡ると旧喜入市内だった。30年前とは様子がスッカリ変わっていて数え切れないタンクも道路からは時々見える程度に建物が建ち並び写真を撮る所ではなかった。海岸線も埋立てられたりして工業団地となっていたりと様変わりしていた。

 喜入を過ぎると、暫くは昔の海岸線が続き鹿児島市内に近づいてくるとっ鹿児島赤十字病院があって、埋立地が工業化されて工場や倉庫が建ち並んでくると、旧道とバイパスの二股になり産業道路南入口となり、バイパスを走り左側は水路になっていて細長い運動公園が続き、障子川を渡ると七ッ島の埋立地入口の薩摩庵にお土産を買うため急きょ寄った。

薩摩庵(鹿児島市七ツ島1-1-22)
 朝出掛けに織物工場の見学を急に取りやめにし
て40分ほど休憩で、工場見学をした後売店で試
食の“かるかん”や“さつま揚げ”を食べると、これ
が昼食前ということもあってやたらと上手かった。
“さつま揚げ”や“黒ブタ”、“焼酎と買え控えいた
ものが堰を切ったように、両手に持ってバスに戻
って来た。ドライバーは、お店から大量に買って
頂いたので数は少ないがと商品を預かってきたと
いい来店の時に貰った番号札で抽選するといい、
幹事が当選番号を発表して5人に渡った。
◎かるかん



軽羹(かるかん)は、自然の素材(山芋・米の粉・砂糖・水)を原料に、セイロ
で蒸し上げた上品な甘さの和菓子で、
薩摩の殿様も召し上がったといわれ
る290年の歴史を重ねた鹿児島の伝統銘菓で、近年では、中に餡を入れた
「軽羹饅頭」も人気。
◎黒豚



在来の黒豚に改良を重ねて完成された鹿児島黒豚。現在は「鹿児島黒豚
証明書」を発行し、ブランドを守る努力が続けら、さつまいもを飼料として与
えているのが特徴で、筋繊維が細かく、肉質のしまりに優れ、ほのかな甘さ
と柔らかい口当たり。
◎薩摩汁



昔、薩摩藩では士気高揚のため、闘鶏が盛んに行われていましが、負けて
死んだ鶏を使って武骨な男性が手っ取り早くできる野戦料理としてあみ出し
たのが薩摩汁です。薩摩鶏・桜島大根・ゴボウ・人参・こんにゃく・ショウガ等
を煮込んだ栄養味豊かな味噌汁。
◎黒酢





今から約200年前、福山町において「くろず」の製造が始まりました。
“くろずの里”福山は、冬暖かくて霜が降ることは稀であり、夏も海からの風
で比較的涼しく、年間の平均気温は18.7度で、発酵に適した土地柄です。
また、姶良カルデラ壁から出る豊富な沸き水、原料となる「米」も身近に存
在していました。更に製造に欠くことのできない「ツボ」が薩摩焼として藩内
でたくさん入手できたことも幸いした
◎薩摩揚げ




原料となる魚はイワシ・サメ・カツオ・サバ・ホッケなど多様だが、鹿児島県
が発祥地とされ生産量が多い事から、東日本では「薩摩揚げ」と呼ばれる
が、西日本や北海道などでは「天ぷら」、中部地方や広島などでは「はんぺ
ん」と呼ばれる事が多い。鹿児島県では「付け揚げ」や「つきあげ」、沖縄で
は「チキアギ」。

 鹿児島ふるさと物産館、七ッ島サンライフプール、光山公園が運輸支局入口まで細長く1kmぐらいも続き、左にカーブし終わると昨日指宿スカイラインの谷山インターから出てきた交差点で電気製品量販店の“コジマ”や“ダイエー”がある。

 この交差点からも左側に谷山緑地帯がズ〜ト続き、今日の昼食場所の“奄美の里”よりも先まで続いていた。昼食場所には直接右折できないので、木之下川の新地橋を渡り南栄の交差点を右折して再び木之下川の塩釜橋を渡ると川沿いに走り、三度木之下川を渡って奄美の里の脇の道路に来て226号線を左折して駐車場に入り昼食場所へ向かった。

奄美の里 (鹿児島市南栄1丁目8番・TEL.099-268-0331)

 茅葺きの屋根の高床式高倉木造建築ヤシの生い茂った南国風の庭は、入口だけ眺めただけだった。正面奥の食事場所に入ると、中国だか韓国だか分からなかったが団体旅行の一団が先客でいた。

 昼食時間も限られていたがビールを飲みながら奄美鶏飯をつまんでいると、周りの団体旅行の連中は大声で喚いていた。どうやら中国語のようでチンプンカンプンで何をいっているかは分からなかったが、我々が席を立つまで喚いていた。リーダー格が指示しているようだが銘々勝手な振舞いで聞こうとする様子は伺え知れない。

奄美鶏飯


 
1609年、奄美大島は、薩摩藩の支配をうけるようになって藩役人が、たえず往来するようになりました。純朴な島の人々は南海の荒波を渡りくる藩の役人を鶏飯でもてなしたと伝えられている。

 奄美の郷土料理「鶏飯」は、鶏肉、錦糸玉子、しいたけ、パパイヤの漬物、タンカン(柑橘類)の千皮などの具を熱いご飯の上にのせ、地鶏スープをたっぷりとかけ、エネルギーの源になるご飯(糖質)、スープに含まれるカルノシンとアンセリンにより代謝が高まり乳酸(疲労物質)が溜まりにくくなり、栄養のバランスがとれた自然食で、暑い奄美で古くから食されていた理想的な健康食といえる。

 16,000坪の敷地の中に、大島紬の見学工場と「道の島」奄美を象徴する壮大な日本庭園とを配し、大島紬の全てをわかりやすく展示した紬パビリオンや大島紬をはぐくみ育ててくれた奄美の大自然と風土をも、じっくりあじわえる。

締機(シメバタ)

緻密な絣は、男の力と技でかたく締め込まれ、根気と熟練を要する大
島紬独特の作業。
手織

月日をかけて染め上げた、たての糸とよこの糸は初めて出会い、織り
手によって一筋一筋織り込まれる。

大島紬・色の種類

★大島紬は、先染め織物
 
 ◎先染め:糸を染めてから布に織ること、表も裏も同じ色柄で表が汚れたり傷んだりしたら、裏返   して仕立て直すこともできる。
 ◎後染め:布に織ってから、手描きしたり型染めにすること。

独特の染色技法により織りだされた大島紬

泥大島


タンニン酸を含むシャリンバイの幹を削り、煎じた液と鉄分のある田んぼの
泥水を用いて染色し、
泥染めの地糸と地糸に絣(かすり)を織り出した絣
糸を、交互に織り込んだもの
藍大島 植物藍を発酵させてつくった藍液を用いた染色法で、藍染めの地糸と藍色
の地糸に絣を織り出した絣糸を、交互に織り込んだもの。
泥藍大島 植物藍で先染めした絹糸に泥染めを混用して染色し、泥染めの地糸と藍
色の地糸に絣を織り出した絣糸を、交互に織り込んだもの。
色大島 化学染料のみを用いて染色され、色染めの地糸に色絣を織り出したもの
伝統の染色技法の知恵に、発想を転換して現代風にアレンジして開発さ
れた。
白大島 白の地糸に色染めの絣糸を織り出したもの。または、化学染料で先染めし
た絹糸を織り締め、脱色してつくった絣糸を白または色染めの地糸に織り
出したもの。

 絣は経(たて)と緯(よこ)の糸が重なった時、どのように見えるか、タテ・ヨコの糸が直角に交わるように組むと十の字になっていることがわる。 
 十の字 の中にはすでに柄となる色が染色されている(先染め)ので、たくさんの糸が密になるにつれて鮮明なものになる。

 奄美の里同エリア内に関連施設でスーパードーム(バッティング、カラオケ、パターゴルフ、 ゲームフロア)、ネオゴルフステージメテオ(ゴルフ練習場)、1F:お好み焼き「かりん」、2F:レストラン「花ん華」。

 茅葺きの屋根の高床式高倉木造建築
ヤシの生い茂った南国風の庭は、入口だけ眺めただけだった。

蘇鉄

 蘇鉄の自生は奄美群島と沖縄群島に限られる。風に強く他の植物も栽培できない急勾配の岩石地にも生息し、台風の通り道で岩石だらけの奄美には最も適した植物です。

 蘇鉄はオスとメスでその外形が胡違っており、成長が遅く一節が1年間に成長した部分で節を数えると年齢が分かる。また、この蘇鉄を奄美や沖縄では食料として利用し、先祖代々飢饉の時など生命をつないできた。

 例えば、実を砕いてお粥にしたり、米・豆・麦を混ぜて発酵させソテツ味噌にした。また幹はそのままでは食料に出来ないので皮をはぎ小さく切り水につけてアク抜きした後食料にした。

 大島紬とも深いつながりがあり、昔からの柄である龍郷柄の中の模様にソテツの葉の形を見つけることが出来る。

 バスに乗り込むと、226号線を引き返し
運輸支局入口まで来て右折して指宿スカイラインへ向った。予定では一般道路を走って維新ふるさと館へ向うはずだったが、見学場所を変えたりしたため大幅に予定時間をオーバーしてしまったのと市内の渋滞が激しくて高速を使っても、如何なるか分からなかったが、鹿児島インターまで行き、昨日の逆コースを辿り武岡トンネルを抜け、JR鹿児島本線を跨ぎ、中洲通交差点を左折して鹿児島中央駅前まで市電通りを走り、ダイエーの手前で右折して、中央分離帯のある目抜き通りを高麗橋交差点で左折して橋を渡り、信号のある交差点を左折するとふるさと館がある橋の袂の駐車場に来た。

維新ふるさと館(加治屋町23番1号)

◎(1階・英雄の道

 入口から受付前を通り中央へと続くアーチの道を抜けると、加治屋町再現を取り巻くように6つのセクションになっていて、広い空間の真ん中に下加治屋町が再現され維新を支えた英雄たちの生活と幕末期の下級武士の一日の生活をここに再現し、先輩が後輩を教え導いた薩摩独特の「郷中教育」を紹介。

 そして時計回りに案内され、島津の歴史と世界・海が結ぶ(昇平丸の紹介)され、 薩摩の誇る日本初の様式軍艦“昇平丸”は、島津家28代当主斉彬が西欧列強に対抗するため藩主田原直助に命じてオランダ造船書を研究させ、嘉永6年(1853)5月、琉球大砲船と称して日本初の本格的な洋式軍艦の建造に着手した。これはペリーの浦賀来航の前月にあたる。試行錯誤の末、19ヶ月後に船が完成。“昇平丸”と命名され、船印として≪日に丸≫を掲げた。

 安政2年(1855)に出航、北西の逆風をものともせず江戸に無事に到着し、建造技術が素晴らしいと絶賛され、同年8月には幕府に献上“昌平丸”と改名された。翌月には勝海舟らが乗り組み長崎へ回航、明治2年(1869)には“臨海丸”とともに北海道開拓使の輸送船として活躍した。

 他藩にさきがけて西洋の新しい技術や文化を導入した過程を紹介され、また、「日の丸」「君が代」のルーツが薩摩であることの解説やフェントン作曲の日本最初の「君が代」を聴いた。

 西郷隆盛、大久保利通を中心にした薩摩人の気質や奥深さを体感させる映像や義妹岩山トクさんの話などと西郷隆盛の軍服、大久保利通のフロックコートを試着し、記念撮影ができたが、何時になく気弱で明治の薩摩武士に圧倒されてしまったようだ。

 維新学習ゾーンは、展示情報と観光情報をリンクさせ、明治維新期の薩摩の動きを詳しく紹介し、西南戦争関係資料など展示し、楽しく学習することができた。

 薩摩観光情報ゾーン には8枚のパネルで来年放送される大河ドラマの“篤姫”が紹介されている。鹿児島人が日本で最初に手がけたものや全国に誇れるものをふるさと自慢や観光情報について紹介している。

篤姫の一生

天保6 (1835)年

薩摩藩今和泉島津家の
忠剛の娘として生まれる。
嘉永6 (1853)年


島津家本家斉彬の養女となる。
鹿児島を発ち、江戸の薩摩藩邸
に移る。
安政3 (1856)年


近衛家の養女となり、
第13代将軍・家定の御台所と
なる。
安政5 (1858)年 家定死去。落飾し天璋院と号す。
慶応4 (1868)年 戊辰戦争勃発。江戸城を去る。
明治元 (1868)年 江戸を東京と改める。
明治16(1883)年 死去、49歳。

◎(地階・維新の道

 中央の階段を下りて行くと左右が展示場になっていて 背面が維新体感ホール。時計回りに右側には(薩摩・科学事始め、維新・夜明け前)日本の近代化工業のさきがけ「集成館事業」の業績を取り上げ「薩摩隼人の情熱と知性」、数々の試練を英断によって克服してきた過程など紹介・展示。左側には(薩摩・明治維新伝、維新・日本のあけぼの )写真や電話など数沢山の近代日本を象徴するような本物や模型をふんだんに再現して近代国家の発揚をまざまざと見ることが出来る。

 1851(嘉永4)年には雛形をつくり、斉彬は鉄も藩内で造ることを考え、翌年から集成館内での洋式高炉の建造が始まった。古代より「たたら法」と呼ばれる銑鉄の技術はあったが、大砲を造るに適した大量の鉄を造ることはできなかった。

 薩摩藩では、1852(嘉永5)年、28代島津斉彬の命によって建造に着手し、試行錯誤を繰り返し、1857(安政4)年の頃には、ようやく完成。その基礎部分には、地元産の石を使ったとみられる基礎石は、高さ約55センチ、幅約50センチの大きさで上質なものである。反射炉とは、火床で木炭や石炭などの燃料を燃やし、炎を耐火レンガの壁に反射させて鉄を溶かして型に流し込む。

 薩摩藩では銑鉄の自給に着手し、完成した高炉では吉田(宮崎県えびの市)の鉄鉱石や志布志(大隅半島東部)・えい(薩摩半島南部)の砂鉄を使い、良質の鉄が作られたと言われる。

 幕府は鳳凰丸、薩摩の島津斉彬は昇平丸、水戸の徳川斉昭は旭日丸、仙台藩は開成丸、と、莫大な資財と知能、技術を投入し幾多の困難を乗り越えて完成させた。

 そしてホールの扉を開けると、ブラネリウムというか丸いドームには階段状に椅子が取り囲み中央に幕末の加治屋町の復元模型、そして郷中教育再現模型やマルチ映像や等身大のロボットなどが配置され、定時にハイテク技術を駆使したドラマは始まるのだが、バスに戻らなければならない時間になり残念ながら見ることは出来なかった。

 バスに乗り込むと、先ほどの高麗橋を渡ると左折して甲突川の甲突橋を渡り五差路になった市電の新屋敷を通り過ぎ信号7つ目の旧中央市場角で左折して、鹿児島港を眺めながら種子島・屋久島高速旅客船ターミナル、ウォーターフロントパーク、NHKなどを見かけ右に緩やかにカーブすると、桜島フェリーターミナルが見え駐車場もあったが、国道10号線まで行き大回りしてターミナルのフェリー乗場に来たが、出航時間には間に合わず15分待つ羽目になり、14時30分フェリーは出航し波静かな錦江湾を15分楽しんでいると桜島に着いた。

桜島(北緯31度35分19秒・東経130度39分17秒)

 鹿児島県の錦江湾(正式には鹿児島湾) にある東西約12km、南北約10km、周囲約52km、面積約80ku、高さ1117mの島であり大隅半島と接続している。その面積の85%は霧島・屋久国立公園の指定されている。また、この島は鹿児島市と桜島町の一市一町からなり、現在約1000人の人々が住んでいる。

 桜島は現在も活動を続けている世界有数の複合成層火山であり、日本の四大活火山(三原山・浅間山・阿蘇山・桜島)の中でも、エネルギーは最大であるといわれている。

 ことに、1476年(文明)、1779年(安永)、1914年(大正)、1946年(昭和)の大爆発は記録的なもので、その時に流出した溶岩原が各所で見られる。

 特に大正3年(1914)の噴火では30億トンもの溶岩を1ヶ月以上にわたり流出し、8つの部落を埋めた上、東側では幅400m、深さ70mの海峡を埋めて大隈半島と陸続きにしたが、ここら一帯の溶岩原はその時に出来たもの。

 前兆現象として同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出るなどの異変が発生した。12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇など。

 1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ約1,000mまで吹き上げられた。午後になると噴煙は上空10,000m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われた。

 1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼した。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認された。桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。

 桜島西部の横山周辺は測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し、対岸の鹿児島市は鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、混乱によって海岸から転落する者や泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。

 この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。

 桜島の大部分を構成する御岳は南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、山腹に多くの寄生火山を配する。山裾が海まで伸びているため平地はほとんどないが、北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり農地として利用されている。温暖湿潤な気候でありながら山肌に木々が乏しい上に火山噴出物からなる土壌のため保水性が低く川はほとんどが涸れ川となっている。

 全島が火山噴出物で構成されているため生育に適する農作物は限られている。特産品として、かぶらを大きくしたような世界一大きい大根「桜島大根」と、世界一小さなみかん「桜島小ミカン」が有名。桜島の溶岩を利用した焼肉プレートも販売されている。

御岳

北岳(標高1,117m)
桜島の最高峰。山頂に直径約500mの火口があり雨が降ると池ができることもある。有史以来山頂火口から噴火した記録はないが、北東斜面に安永大噴火の火口がある。
中岳(標高1,060m)
北岳から約900m南に位置する。有史以来噴火の記録はない。南岳の寄生火山の一つである。
南岳(標高1,040m)
中岳から約500m南に位置する。山頂に直径約700mの火口があり、その内側に二つの小火口(A火口とB火口)を擁する。火口内にはかつて白水と呼ばれる池があった[。この火口は(1昭和30年)以降活発な噴火活動を続けており、山頂火口から半径2km以内は立ち入り禁止となっている。南側山腹にはの火口、東側山腹にはの火口がある。
寄生火山(側火山)
 湯之平(ゆのひら、標高373m)
   北岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム。御岳の山頂付近を間近に眺めることのでき
   る湯之平展望所がある。
 春田山(はるたやま、標高408m)
   湯之平の東側に隣接する溶岩ドーム。京都大学の火山観測施設が設置されてい
   る。
 権現山(ごんげんやま、標高350m)
   南岳の東側斜面に位置する溶岩ドーム。
 鍋山(なべやま、標高359m)
   南岳の東側斜面に位置する火口跡。南側に大正大噴火の火口(東火口)がある。
 引ノ平(ひきのだいら、標高565m)
   中岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム。北東部に大正大噴火の火口(西火口)があ
   る。

主な部落 

横 山:桜島の西端に位置する。桜島フェリーが発着する桜島港(袴腰港)があり桜島の
      玄関口にあたる。京都大学附属火山活動研究センターや道の駅桜島がある。大
     正溶岩の上につくられた桜島溶岩グラウンドは鹿児島県で最も広い運動場であ
     る。近くに城山(横山城跡)があり、山上に桜島自然恐竜公園がある。
 
赤 水:大正溶岩に広く覆われており、溶岩原を真っ直ぐに横断する国道224号線は溶
     岩道路と呼ばれる。海岸沿いを通る旧道沿いには溶岩に埋没した烏島(からすじ
     ま)に因んだ烏島展望所がある。
 
黒 神:桜島の東端に位置し、火口の風下にあたることが多いため噴石や火山灰による
     被害が特に大きい地区である。文明溶岩が海上に伸びてできた大燃崎と呼ばれ
     る岬がある。大正大噴火の埋没鳥居で知られる黒神神社や、昭和溶岩に埋め尽
     くされてできた地獄河原と呼ばれる溶岩原がある。
 
桜島口:桜島と大隅半島の接続点にあるバス停。周辺は幅約0.8kmの地峡であり鹿児島
      市黒神地区と速水市早崎地区の境界にあたる。大隅半島の海岸沿いを通る国
      道220号から桜島南部を通る国道224号と桜島北部を通る県道26号が分岐す
      る交通の要衝であるが、大隅半島側は戸柱鼻と呼ばれる断崖であり桜島側には
      大正溶岩が迫っている。特に大隅半島側の崖は崩れやすく大雨によってしばし
      ば通行止めとなるが、これを避けるため迂回路が建設されている(2008年3月
      完成予定)。

 桜島は頻繁に噴火を繰り返してきたため同程度の標高を有する周辺の山地とはすすきが異なっている。山頂付近には植物がなく標高600m付近からすすきなどの草が生え始める。標高が下がるに従ってヤシャブシやノリウツギなどの低木がみられるようになり、クロマツや広葉樹の林へと続いている。山麓付近はクロマツ、タブノキ、アラカシ、シイの林となっており、北部から北西部にかけてはスギやヒノキの人工林も存在する。大正大噴火以前は山頂火口付近までヤシャブシの林があり、中腹まで広葉樹の天然林が広がっていた。

 そんな話をバスのドライバーがノロノロ運転をしながら話を聞き上り坂を上り始めた。大正の大噴火で流れ出た溶岩が流れた後もそのままになっていて、傾いた電柱も半分以上も埋まっていた。バスもエンジン音を立てながら溶岩道路を曲がりくねって15分、ようやく“有村展望台”にやってきた。

有村展望台(鹿児島県鹿児島市有村町)



 国道224号線沿い、噴火口のある南岳のすぐ近くの展望台でトイレ、数軒のお土産屋のある駐車場から、展望台まで階段が整備され、約800mで途中には“あずま屋”があったり、ライオンに見えるような奇岩(溶岩)があったり、結構楽しく、記念撮影したり、頂上付近を見ると、山肌から蒸気が上がったりしていて、活火山であることを再確認し、厳つい退避壕も近くにある。

 昨日に比べると大分雲も出ていて、挙句西日で錦江湾は霞んで見晴らしはよくなかった。バスは大正溶岩の奇岩がゴツゴツ積み上がった山麓の坂を下り付け根の垂水市に入った。左側には
大雨によってしばしば通行止めとなるため、これを避けるため迂回路(牛根大橋)が建設されている(2008年3月完成予定)。

 220号線から完成間近牛根大橋を望ながら、海岸沿いの道路は時に高い堤防になっていたりしたが、真横から赤く染まりかけた雲の彼方に桜島が次第に遠のき、霧島市に入ると、220号線から高台の山道に入り戻るように走って見学場所の桷志田(かくいだ)黒酢工場へ着く。時間は4時を間近でここでトイレ休憩と見学をして慌ただしくバスに乗り込むと、220号線に戻り空港に向った。

桷志田黒酢工場(霧島市福山町福山2888番地)

 かめ壺畑見学・黒酢レストラン・黒酢直売の3つを融合した黒酢本舗“桷志田”が平成17年10月1日、新規オ−プンされた店に立ち寄った。最初の仕込みから最後の仕上げまで2年間、野外のかめ畑で、信楽焼(滋賀県甲賀地方の信楽で行われている)を使い、敷地内に湧き出る、硬度30度の軟水でミネラルが豊富で名水といってよい(塩類をまったくといってよいほど含まない)を使っていると、野外のかめ畑で説明を聞いて、店内で試飲した。

黒酢の歴史

 江戸の藩政時代から、重要な商業地であった福山町は黒酢の原料となる良質な米ときれいな湧き水、そして温暖な気候に恵まれており、この環境に着目した商人竹之下松兵衛により黒酢造りが始められた。別説では山川(鹿児島県揖宿郡)や日置(鹿児島県日置郡)の杜氏が伝えたとも中国大陸から伝わったともいわれる。

 福山黒酢は別名「壷酢(壺酢)」」とも呼ばれ、独特の製法で用いられる容器は『アマン壷』と呼ばれる陶器製の壷。杜氏が玄米、麹菌、水を仕込んでからは、壷は屋外に置かれ放置され、昼間は南国鹿児島の強い太陽光に照らされ、夜は鹿児島錦江湾からの冷たい海風にさらされ、その中で1年以上かけて自然にじっくりと糖化、アルコール発酵、酢酸発酵までが行われる。

 一方米酢は、原料の精米を蒸したものをホーローやステンレスなどの金属容器に入れて、そこに水と麹菌を加えて糖化させ、次に酵母菌を入れることでアルコール発酵させ、酢酸菌を加え製造にかかる期間は4ヶ月ほどの短期間。  

 黒酢と米酢の違いはズバリ“原料”とその“製法”で、黒酢は“玄米”・米酢は“精米”を使用、製造にかかる期間は黒酢は2年以上・米酢は4ヶ月ほどの短期間。黒酢にはアミノ酸、有機酸、ビタミン類、ミネラル類が含まれ、特にアミノ酸はタンパク質を構成する最小単位で、タンパク質は、脳、筋肉、内臓、皮膚、毛髪、爪、血液など体のあらゆる組織を構成し ている。

 人間が必要なアミノ酸は20種類。 このうち人間の体内で合成できる11種類のアミノ酸を「非必須アミノ酸」、体内で合成できない9種類を「必須アミノ酸」と呼び。アミノ酸を含むといわれる一般的な米酢の約7倍ものアミノ酸を含んでいる。 

 黒酢の里として知られる“福山町”は鹿児島県霧島市(旧・姶良郡)にある人口7500人弱の小さな町で、桜島の北東に位置し、 前面に錦江湾の大海原、後背には桜島の火山灰によるシラス台地の急斜面で非常に風光明媚な、温暖な気候を生かした黒酢造りとミカン育成が有名。

スポーツ韓国(2006−12−29)

 2006年ロイヤルブランド賞ナイスキンダム、200年伝統福山黒酢を紹介、今は、酢は単なる調味料の役割を超え、疲労回復・血液循環・脂肪分解・ストレス解消などにも優れた恒久健康飲料として注目されている。

 特に玄米を原料とした黒酢は酸味が薄い代わり、甘味と良い香を持つため“飲みやすい食酢”として脚光を浴びている。そんななか“ビエントレイド”(代表ホンソンソク)は“黒酢の本場”といわれている日本・鹿児島県の福山で製造された黒酢を輸入し、約20種類の製品を販売している。200年前から受け継がれた伝統の製造方法を使い、日本の最高の職人が造った“桷志田2年熟成黒酢”日本の農林水産省から郷土特産物第1号に指定された“マルシゲ黒酢”などがその代表的な製品である。

 現在、ビエントレイドの黒酢は“シンセゲデパート”(本店カンナム)とオンラインショッピング“ナイスキンダム”などで販売されており多くの消費者から良い評判を得ている。そのことについてビエントレイドのホン代表は“一度お買い上げになられ飲んだお客さんからリピーターが多いし、それだけ黒酢はお客さんの間で定評になっています”と品質の高さに自信を表した。

 韓国の健康ブームに“桷志田”がひと役買う(桷志田をROYAL BRAND賞受賞)ロイヤルブランド賞都は”スポーツ韓国”という韓国の新聞社(韓国では有名な全国紙)が主催し、消費者に良い商品を提供するなど良い活動をした優秀な中小企業に贈られる賞です。

 そして昨年、日本の鹿児島県福山、桷志田をはじめとする黒酢を輸入し、シンセゲデパート(韓国で一番有名なデパート)やネットで販売する“ビエントレイド”おいう会社が受賞、2006年12月29日付の“スポーツ韓国”で受賞を報じる記事が出ました。

 220号線から第1大学を右に入り県道2号線を左にそして国道475号線を走り、国道10号線を横切り検校川を渡り、京セラの工場前を通り少し先を左折してJR日豊線の国分駅そばを通り、五差路を右先に進み、 手篭川を渡り右側の道路と合流して樹議路を越して細くなった道路を走り、左折すると天降川に架る若鮎橋を渡り、223号線と交差する空港入口交差点からJR肥後線のガードを潜り、後5`の標識を後に上り坂になり生い茂った木でスッカリ暗くなった道は504号線のヘヤピンカーブが幾つもあり、上り車線まである急坂を上がりきると見通しがよくなり、昨日空港を出発した駐車場に戻って来た。

鹿児島空港鹿児島県姶良郡溝辺町

北緯31度48分12秒・東経130度43分10秒)
標高:271.9m、滑走路:3000m・幅45m(16/34)、面積:1,824,869u

 鹿児島市旧鴨池空港から1972年4月に移転開港した鹿児島空港は、鹿児島市の北東約28kmに位置し、東に霧島連峰、南に桜島を臨み年間乗降客約574万人(H16年度)が行き交うターミナルビルは、鹿児島中央駅までバスで45分あり、2005年12月には国内空港初の天然温泉足湯「おやっとさあ」もオープン。

概要

名称 鹿児島空港天然温泉足湯「おやっとさぁ」
場所 国内線ターミナルビル1階前面通路 3番玄関横
運用時間 10:00〜18:00(夏季 10:00〜19:00)
面積 67.68u
座席数 20席(2人掛けベンチ10台)・車椅子専用 1席
泉源 国内線ターミナル前県営駐車場内 地下1,498m
泉温 46.6°C
湧出量 40g/分
泉質 ナトリウム 炭酸水素塩泉(重層泉)
適応症

(浴用)きりきず・やけど・慢性皮膚病・(飲用)慢性消化器病・糖尿病・通風
・肝臓病
供用開始 2005年12月20日
その他 飲泉場・県内温泉地をPRするパネル4枚・オリジナルタオル(200円)

 空港ターミナル北の外れの指定許可車専用乗降場でバスを降りANA玄関口から入り国内空港初の天然温泉足湯「おやっとさあ」を眺めながら延々歩き、JALのチェックカウターでチェックを行い、エレベーターで3階の飲食店に入った。まずビールと全員で乾杯し、焼酎や日本酒と好みのものに替えて相当量飲むと、メニューからそれらしきものを注文し、山盛りのうどんとミックスされた風変わりな寿司と数品が運ばれ時間があったのでみんな良く食べた。

 搭乗時間まではかなりの時間待たなければならず、思い思いに三々五々に別れた。3階の送迎デッキで飛び立つ飛行機を見送ったりして夜風に当って酔いも醒めてしまうのでターミナル内に入り、2階の出発ロビーの8番ゲート前のJALラウンジで椅子に掛けていたが、その内に席を立ちウロウロして、一番先10・11ゲート前の畳み椅子に腰掛けたり寝転んでいる内に、出発時間が近づきアナンウンスで10番ゲートが騒々しくなり行列が出来た。

 殆んどがゲートを通過してガラ空きになったゲートに集まって機内へ入って行った。夜景でも見ながら帰れるかと期待したが席はジャンボ機のど真ん中で、来る時みたいに飛行中の景色が見られるかと座席の小型テレビを探したが、どこにも着いていなかった。羽田までは眠って帰るしかないと覚悟を決めて早々に寝入ってしまった。

 17時40発の羽田行きで、45分にゲートタラップが離れ、誘導路から滑走路に入り左に空港建物を見ながら滑走し、52分には地上を離れ見る見る内に上空に上がり、漆黒に闇になってしまった。後は虚ろな気分で眠っていた。そんな中アナウンスがあり1万フィートに達し飲物サービスのカートが20時12分通路にやってきて注文を聞くのでホッとコーヒーを注文した。

 飲み終わり後片付けが一段落すると35分に緊急患者がおりますとお医者様がおりましたら後の席へお願いしますというアナウンスに前の方から3人が通路を小走りに通り過ぎた。暫く気にしていたが爽やかな顔でユックリ自分の席に着いた。55分にはシートベルトのサインとアナウンスでベルトを締めた。東京湾を大きく旋回する時に斜めになった夜景がほんのチョッピリ見えて21時15分羽田のC滑走をに接地し、大分ガタガタと揺れて20分にはゲートタラップが横付けになり、到着ロビーを歩き、地下の京浜急行へ向う動く歩道やエスカレーターに乗って階段を下りたりしてホーム着き、居合わせた品川行き乗って、品川で乗り換えて八広に着き解散した。

鹿児島県


県章

日本本土最南端に位置。総面積は9,187kuで薩摩半島・大隅半島の二つの半島と多くの離島を有し17市・28町・4村の49市町村で構成。人口:1,731,639人(H19.10月1日現在)男:
808,282人・女:923,357、世帯数:732,828世帯。
県の木:カイコウズ・クスノキ
県の花:ミヤマキリシマ
県の鳥:ルリカケス


シンボルマーク

 西洋の技術を取り入れた藩である島津藩の領地で「薩摩」と呼ばれて、古くから中国や韓国,東南アジアをはじめとする世界の国・地域の文化と接し、県独自の歴史や文化を作り上げ、今でも薩摩という地名はなじまれ、1868年の明治維新を推進し、それまでの封建制度を崩し、良質で豊富な農林水産物を産出すると共に、それらを活用した食品産業が集積し食糧供給基地としての役割を担い、一方で、電子関連産業の集積と技術の高度化が進み、現代科学の粋を集めた宇宙ロケット打上施設を有する国内で唯一の県である。

 2004年3月には,九州新幹線鹿児島ルート鹿児島中央・八代間が開業し、鹿児島空港は南九州の拠点空港として上海線・ソウル線の2つの定期国際航空路線を有するほか東京・大阪等の国内主要都市や県内各離島と多くの路線で結ばれている。

 南北は北緯27度1分から32度18分まで約590kmにわたり,東西は東経128度24分から131度12分まで約272km。総面積は9,187kuで、離島のうち幅が100m以上の島は145島あり、28の島に人が住んでいる。

 小さな山脈や河川がとても多く、平野部が限られ2,643kuにおよぶ変化に富んだ海岸線があり、県全土が火山灰堆積物に覆われ約半分は軽くて灰色の火山灰のシラス台地になっている。屋久島は,周囲132km,面積504kuの島です。九州の最高峰である1,936mの宮之浦岳と1,886mの永田岳を擁する屋久島は,「洋上アルプス」とも呼ばれ1993年には,わが国で初めての世界遺産に登録された。川内川を除いて鹿児島県の川は規模が小さく、湖は,ほとんど火口湖で、池田湖は周囲15km,深さ233m,面積11kuで九州最大の湖です。

難読地名

阿権・あごん 伊仙町 花良治・けらじ 喜界町
安木屋場・あんきゃば 竜郷町 神子・こうし (さつま町)
頴娃・えい 頴娃町 神殿・こどん 日置市
可愛山陵・えのさんりょう 薩摩川内市 寒水・そうず 鹿屋市
大箆柄岳・おおのがらだけ 鹿屋市・ 垂水市 提口・さげんくち 志布志市
苙口・おろんくち 日置市・ 指宿市 財部・たからべ 曽於市
仮宿・かいじゅく 大崎町 生見・ぬくみ 鹿児島市
金川岳・かねんごだけ 奄美市 祓川・はらいがわ 鹿屋市
柊野・くきの さつま町 日当山・ひなたやま 霧島市
管鈍・くだどん 瀬戸内町 能野・よきの 西之表市
花棚・けだな 鹿児島市 若尊ノ鼻・わかみこのはな 霧島市
祁答院・けどういん 川内川中流域の地名    

稲荷神社と「島津雨」のいわれ

 島津家が稲荷大明神を氏神としているのには、一つのいい伝えが残されている。身重の体で旅を続けていた丹後局 (島津家初代の領主、忠久の母)はある時、赤ん坊が生まれそうになったので、摂津 (大阪府)にある住吉神社の境内で苦しんでいた所、突然の大雨で辺りが真っ暗になった。そこへ稲荷 大明神の使いのキツネが明かりを届けてくれ無事に出産できたとか。

 それから、島津家では稲荷大明神を氏神とし、良いことがあるときに降る雨も「島津雨」と呼んで喜ぶようになったという。

平成トライアスロン

 菜の花に彩られた早春の指宿を走る「指宿菜の花マラソン」、真夏の太陽を浴びて錦江湾を泳ぐ「桜島・錦江湾遠泳大会」、紅葉に包まれた秋の霧島を駆け抜ける「霧島高原サイクルジャンボリー」。

 これらの大会の総合得点で競う平成トライアスロンは、ラン、スイム、バイクが各季節ごとに開催されるユニークな大会。 各地の最も美しい季節を肌で感じながら、恵まれた自然環境を利用した鹿児島ならではのスポーツイベント。