鹿児島県指宿市東部(旧薩摩国)にある摺ヶ浜温泉(砂むしで有名)、弥次ヶ湯温泉、二月田温泉などの温泉群の総称。

 
古くは「湯豊宿(ゆぶじゅく)」と呼ばれ、約150年前に編纂された「三国名勝図会」にも砂蒸し風呂や共同浴場「弥次ケ湯」が登場。

 名物の砂蒸し風呂は溢れ出る温泉が温めた砂を利用している(天然砂蒸し風呂は、潮位や天候によって利用できない)。市内のいたるところに湧く源泉は、実に800本前後。1日約12万トンの豊富な湯量を誇る。


  
指宿市内のその他の温泉地

◎柴立温泉
  宮ヶ浜駅付近に存在した温泉。歴史は古く『三国名勝図会』には湯が川のように流れ
  出ているとの記述があるが、周辺の温泉開発によって湧出量が減少し1973年(昭和
  48年)以降は使われなくなった。
◎宮ヶ浜温泉
  宮ヶ浜駅付近にある温泉。魚の養殖に利用されている。
◎潟山温泉(がたやまおんせん)
  二月田駅の東側から魚見岳にかけて広がる温泉。主として農業に利用されている。
◎潟口温泉(がたぐちおんせん)
  湯之里温泉の東側海岸沿いに位置する温泉。歴史は古く湧出量も多かったが湯之里
  温泉の開発  に伴って急速に衰退した。魚の養殖に利用されている。
◎二月田温泉(にがつでんおんせん)
  二月田駅の西側に位置する弱酸性の温泉。1831年(天保2年)に島津沖斉興が摺ヶ浜
  から館を移し殿様湯と呼ばれた。殿様湯跡は指宿市の文化財に指定されており、当時
  の敷石などが残されて  いる。
◎河原湯温泉(こらんゆおんせん)
  二月田温泉の西側に隣接する温泉。
◎弥次ヶ湯温泉(やじがゆおんせん)
  指宿駅の北部に位置する温泉。名称の由来については弥次という者が発見したためと
  伝えられているが別の説もある。観葉植物の栽培に利用されている。
◎湯之里温泉(ゆのさとおんせん)
  弥次ヶ湯温泉の東に隣接する温泉。高温の湯が得られることから盛んに開発が行われ
  製塩などに利用されていた。周辺の宿泊施設等の泉源として利用されている。
◎大牟礼温泉(おおむれおんせん)
  『三国名勝図会』に記されている古い温泉。温泉水位は低いが、温度は高く、動力揚湯
  により公衆浴場、旅館、自家浴場、配湯用として利用されている。
◎JR指宿枕崎線指宿駅以西北部
  権現、権太郎、巣目等の温泉地帯がある。山麓部では温泉の温度が高く井戸堀が困
  難であり、この地帯の温泉利用は進まなかった。
◎JR指宿枕崎線以西南部
  1955年(昭和30)年以後国立鹿児島療養所(現国立指宿病院)および南迫田で掘削が
  行われ、施設園芸、自家浴場、公衆浴場、配湯用等に利用されてきた。平地に比べ温
  泉水位は低くエアリフトによって揚湯している温泉が多い。





〒891-0406 鹿児島県指宿市湯の浜5-26-27 
TEL:0993-22-3231
FAX:0993-22-2219
錦江(きんこう)湾の目の前というロケーションにある、
眺望自慢の宿、海までわずか10m。 
9階の『天空野天風呂』男性用、女性用も目隠しなしで、
佐多岬を望み、
湯船に浸れば海に溶け込んだような気分に。
2階展望大浴場(サウナ付き)
5階家族湯3室
吹き抜け空間にある南国の花木を優雅に描いた白薩摩焼の大壁画が美しい。




 目が覚め時計を見ると4時だった。予定していた時間だったので起き出し、集合時間までの間に手掛けているブログの日記にそれぞれを書き込み、集合場所に行くと、幹事の1人は駅まで乗車切符を買いにもうでかけ、まだ来ない何人かを待っているところであった。

 5分もすると時間だったが全員揃った所で駅に向った。早朝で寝静まっているので歩く靴の響きがやたらと大きく聞こえ、尚且つ遠慮なく各人が話す声が建物に反射するのか気になってしょうがなかった。それとなく注意を促がすと小さくなるが直ぐに元に戻る始末で、1年一度の男ばかりの旅行だが楽しみにしている事が心に伝わってくる。

 京成曳舟駅発5時30分に乗り込み押上駅で急行に乗り換えた。品川までは各駅停車で、曳舟で乗った電車には泉岳寺まで追い抜く事はなかった。しかしここから乗り返えしていれば腰掛けて終点羽田空港まで行くことは出来ないほど電車は一杯だった。

 久しぶりに来る京急と飛行場とのコンコースは矢印案内を見ながらエスカレーターに何度乗り換えた事だろうか。2階の出発ロビーも左端のカウンターまで全員で歩て行き搭乗券の確認をし、朝食の為に今度は左側に歩き始め、先ほどの出入口を通り過ぎ、搭乗券や手荷物検査のチェック場所を確認して、予約してあった和食の店“大和”へ上がり、各自思い思いの注文をしたが、殆んどが朝定食とビールを注文して寛いでいたが、定刻30分前になり店を出て、カウンターで金属探知機の検査を受け無事に通過してホッとしていると、搭乗開始のアナウンスが聞こえた。

 登場口は動く歩道に乗ってさらに向こうで、殆んどの乗客は通過した後でスイスイと通り抜け機上の人になった。JAL1863便(8時5分発)鹿児島空港行きジャンボで席は横一列で左右に2席づつ通路があって5席が横並びのAーIまでのC席だったので外の景色は殆んど見えなかった。

 諦めて座席に着いていた画面を見ていると、一通りの説明ビデオを見終わるとエンジン音が大きくなると機体はバックを始めた。完全に誘導路に出ると今度は前進し始め、空港こう建物が途切れると左に曲がり、C滑走路との連絡誘導路に入り高速湾岸線や平行する国道357号線上を横切りC滑走路の誘導路を数珠繋ぎになって滑走路南側の停止線目指してゴトゴト揺られて、この間20分、空港を離れたのは8時29分だった。

 滑走路を北に向って走り出すと揺れと振動が一層激しくなり、ふわっと地を離れた瞬間違った世界に入り込んだ気になった。傾いた機体から地上が見え機体が背中を押すように上昇しているのが分かるほどグングン登ってゆく。

 あっという間に東京湾の上にいた行き交う船の白波が幾筋も見え、横断する白波の筋もあっという間に雲で見えなくなると、雲を過ぎるばかりで何も見えない。上昇続ける機体がどれほど上昇したか分からないが、5分もすると雲の上で真っ青な青空になり、窓から朝日がギンギン照りつけ小さな窓から日差しが入り込みまぶしっかった。

 それからというもの下に雲、横に青空が見えたりしていたが、座席の画面には雲が移っていた。そして、9時を過ぎるとシートベルトの着脱許可が出ると、9時15分にはワゴンに積んで通路を飲物サービスが始まり、コーヒーを頼み暫し一息入れ、ワゴンが納められるとコップに回収やら毛布や新聞サービスと通路は行き来が激しい。

 席というと主翼の前の付け根辺りだった。今日は機内探検ではないが、ここから一番後ろのトイレまで直行した。扉の前では3人ほど壁に寄りかかりながら待っていたが、中々出てくる気配はなかった。その内に反対側のトイレ前に立つ人がいなかったので場所を変えると、あっという間に順番になり狭い狭い場所だったが用を足し扉を開けると自分の前で待っていた人が立ち、反対側の先頭の人はまだ向こう側で立っていたがこちらに移動してきた。

 席に戻りながら通路から見渡すと頭の上がチョコリ見えるだけで、居眠りや新聞雑誌を見ているだけの詰まんない光景だった。まだまだ時間にして半分は何も見えない雲ばかりかと思いながら座っていたが、何となく画面のチャンネルをいじっていると地図やゲームが出てきたが、心ここにあらずで実が入らなかった。

 デジカメをいじったり、目を覚ました友人と話したりしていると、9時40分には画面にいきなり地上の景色が映り始めた。しかし、ここが何処だか分からない。9時45分にはベルト着用のランプが付いた。

 よく見える地上には山肌を切り開かれお赤茶けた所があちこちに見え、そしてビニール畑がキラキラ光り、所々に家並みが見え、田園風景ばかりが次々に現れは消えしている内に9時52分に陸地が消え、海面がキラキラしていたが1分もすると、陸地が見え九州鹿児島か宮崎だと思った。

 2分後の画面には鹿児島空港の滑走路が映り始め、ドンドン近づき昔テレビゲームで“ジェットでGO”のゲームそのままに滑走路先端の着地線が真下に見えるとドドと揺れ響き着地した。何度も乗る飛行機だが今日ほど静かな飛行をしたのも珍しい。

 左に空港建物を見ながら滑走して3分後には停止し機外へ出た。それにしても鹿児島は暑かった。涼しい伊東京だったので着てきたスーツは脱ぎ捨て手に抱え待っていたバスに乗り込み、棚に載せた。

 9人の旅だったのでバスもそれなりのバスを予想していたが、小型は出払い大型の55人乗りにたった9人で乗10時20分に出発。一番前の席に陣取りデジカメで道路を曲がるたびに写真を撮った。

 2人の幹事が空港付近のコンビニで飲物のビールやチュウハイ地酒とおつまみを買い、10時40分に九州高速自動車道に乗り南に向かい正面に桜島が全面を被うように見え、緩やかに右にカーブし始めると左側に移動し始め、そして左に曲がり始めると錦江湾(鹿児島湾)の水面が見え始め、飛行場がいかに高台かが伺えた。

 加治木ジャンクションを過ぎ、枝分かれした絹掛川を2度渡り、川幅の広い別府川を渡ると見えてくるのが桜島サービスエリア、暫く行くと蛤良のインターになりここで一般道に出た。左折して思川を渡り信号3つ目の下枦山交差点で国道10号線に右折して入り、JR日豊線を跨ぎ、海岸線を3km余り南下して蛤良町とさよならして鹿児島市に入った。

 海岸線は大崎ヶ鼻を通過して11時20分に、仙巌園・尚古集成館(通称・磯庭園)到着。昼食を兼ねて午後1時10分まで約2時間の見学。正面のコンクリート製の鳥居の横を通り駐車場に入り、鳥居と神社の間を通り仙巌園・尚古集成館に入り広大な境内を散策した。

 朝が早かったせいか年のせいかは定かではないが、お疲れもうした。30年以上前に来た時には若さに任して歩き回ったが、こんなに広かったかと疑ってしまった。昼ご飯までは1時間半もあるので入口はいた真前の大砲や反射炉跡の石垣を登ったり、土産物屋で焼酎の試飲、芋餡の饅頭の試食、さつまいもアイスクリームとかたくさんあり、そして大島紬の商品がズラリと並びネックタイはショーウインドーの一番高い所に陳列され目だっていたが、横目で眺めて外に出た。

 右に近代薩摩焼発祥の地の碑があり、左に島津家水天渕発電所記念碑、そして昭和58年から59年にかけて解体修復された正門が続き、門を出ると国道10号線で車の往来が激しく、直ぐに庭園に戻り、広く開けた庭内を歩き錫門に向った。

 御殿コースと書かれた案内板と入口案内があり、御殿内特別観覧で“楽しい解説”“お菓子・お抹茶サービス付”と書かれ、大人700円・小中学生350円の別途入場料を払わないと入園できない。

 角柱の門柱が建ち中に入ると島津家の別邸として建てられた御殿・庭園・茶室・秀成荘・曲水の庭・望嶽楼など続き、門右には獅子乗大石燈籠、そして海の向こうには桜島が悠然とこちらを向いている。

 池の風情を眺め錦鯉を呼び寄せ、東屋で腰を下ろし、一端の有閑人に成り済まし、狂い咲きしている桜に目をやり、一句と思ったが凡人にはひらめきさえなかった。ふと、左の山の中腹には中国文化に影響されたといわれる千尋巌が遙かに見え、木々が覆いかぶさるようになった下を潜り抜けると石橋が現れる。

 保津川の石橋を渡り左に入ると磯山公園がある。茶室の秀成荘や曲水の庭もある。右に折れて明るく開けた小さな瓢池に出た。真直ぐ行くと発電用ダム跡の石垣の上には今にも水が出てきてもおかしくない注ぎ口がある。右に池に沿って行くと茶室「秀成荘」「徒然庵」もあり、発電用ダム跡の横を通り左に曲がる坂道を上ると一段と高くなり見晴らしがいい。

 チョロチョロと流れる小川に架る石板の橋を渡ると曲水の庭、我国おける孟宗竹の歴史の発端となった「江南竹林」と続き石段を十数段下りると、保津川の石橋を渡り、右には2匹の猫が祀られた猫神神社、猫屋、坂を上がると二股になり突き当たりには「筆塚」に碑振る向けば、磯御殿の真裏に周っていて屋根の先は錦江湾が一望できるスポットである。

 坂を右に取り上がると「迫ん太郎」という谷水を利用した精米機の働きをした小屋があり、そして右には「千尋巌方面から水道石管を伝って流れ来る水を濾過するために建てられ、平成13年には登録文化財に指定された建物もあり、さらに坂道は千尋巌につながっている。

 ここから切り替えして今日に昼食予定のレストラン「松風軒」に向うには筆塚前を通り、梢に見え隠れしている程度しか離れていなかったが、予定時間にも近かったのでレストランに入り、島津御膳とビールで乾杯して、腹ごしらえが出来ると現金なもので元気もで、一望できる庭園と錦江湾を眺めながら坂道を下り、白く粉をふいた「リュウゼツラン」「蘇鉄」を見ながら皆と別れ、寄り道して「ぢゃんぼ屋」の竹串2本に指し、きつね色に焼きたれをつけた餅の香ばしい匂いを嗅ぎながら前を通り、島津家伝統工芸品等の「陶芸館」を覗いて、仙巌園を出て南国バス停前から鶴嶺神社大鳥居前を横切り尚古集成館・別館へ向った。

 仙巌園から尚古集成館・別館にかけては、かって、島津斉彬が築いた工場群の跡で国の史跡文化財に指定されている。入口付近には「明治天皇行幸所集成館碑」「紡績百年碑」、史跡文化財の機械工場の中に入ると、機械を使って仕事をしていた私には、身近な親しみの湧く部品があちこちにあり動力を入れれば直ぐにも動き出しそうな懐かしい機械に思わず頬擦りしたくなるほどだった。

 尚古集成館・別館脇から駐車場に向かったが、川と道路を隔てて薩摩ガラス工芸の切子工場が見え、その先は「登り窯」「磯くわはら館」「磯お庭焼窯」「異人館」「造船所跡碑」「鹿児島紡績所跡碑」などが国道10号線に沿って点在している。

 駐車場を出て国道10号線を鹿児島市内へ向うと、結構長い「滝の神トンネル」に入り出てくると稲荷町でJR日豊本線が平行に走り、清水町辺りに来ると「東郷平八郎銅像600m」の大きな標識そして稲荷川を渡る。柳町の標識が見えるとJR鹿児島駅、桜島フェリー乗場の案内板、JRを跨ぐと市役所の建物、車内見物の「西郷隆盛像」大鳥居の先「照国神社」と続き、「ザビエル公園入口」「市民病院」の案内板を過ぎると国道3号線になっていた。

 国道3号線と別れ、甲突川の平田橋を渡り平田橋西口交差点を過ぎると、前方に高く見えるJR鹿児島本線のガード下を潜り、左に800mも行くと「西鹿児島駅」がある。この先の信号4つ目の角、ハートピアかごしま2.4kmの案内看板、三叉路の突き当たりの県立「鶴丸高等学校」を左曲がり、見える陸橋は九州新幹線で、西鹿児島駅西口に来ると駅向こうに大観覧車も見える。

 九州、南九州、指宿スカイラインの案内標識のアル武町交差点を左折して、次の建部神社前交差点を過ぎると、パックリ大口を開けた武岡トンネルに入り、出ると建設中のインター辺りは片側1車線になり、直進国道3号線は南九州、左に分かれる九州、指宿スカイラインと高速の入口「鹿児島インター」が迫ってきた。

 指宿スカイラインに入り最初の「西陵トンネル」初め3つのトンネルを抜けると料金所と山田インターを素通りして、次の中山インターも素通りし、短いトンネルを2つ通過して谷山インターから一般道に出て、慈眼寺辺りから回り込んできたJR指宿・枕崎線が交差し並行に500m強走り、国道225号線の立体交差の和田坂交差点を過ぎ、産業道路の谷山緑地帯に出てきた。

 直進は工業団地、左は217号線・鹿児島市街、右は219号線・指宿・枕崎とこの交差点で、見事に分かれている。左角のには見慣れた電機のコジマNEW谷山、右角には交通安全教育センターとがあった。右折して市民体育館、運輸支局入口、細長い光山公園、鹿児島ふるさと物産館、運動公園や埋立地を過ぎると産業道路南入口で225号線と合流。

 左に錦江湾、右にJR指宿・枕崎線が着かず離れずで、平川町の三叉路交差点で右折して片側1車線のカーブの多い山間部に入った。この辺りからやたらと睡魔に襲われ、斑居眠りが始まり目が覚めると、手哀峠を下り指宿スカイラインの知覧インターから知覧のゴルフ場脇を走り、手哀小学校、中岳南で90度近くカーブすると、かなり長い直線道路を走り、麓川沿いに5、6kmも走ると2つの橋を渡り、“知覧武家屋敷群庭園”に到着した。

知覧武家屋敷群庭園
 
 鹿児島市内の仙巌園の松風軒を時間通りに出発して、ほぼ時間通りに到着し森商店の駐車場に停車して、建物の向こう角の自販機の横を曲がり本馬場通りへ入り、クランクを曲がり貰ったパンフレットに描かれた@西郷恵一郎氏庭園へ全員で向い散策した。

 次第にバラバラになり最後は2人きりになり、途中稽古所跡・二ツ家を覗き、その他の各庭園家屋を眺め往時を偲んだり、行き届いた手入れに感心したりし、最後の森重堅氏庭園を出て1`足らずの距離を40分間は短く時計を見ると集合時間を過ぎていて、慌てて麓川に架る城山橋を渡り、県道23号線に出て槇の街路樹と清流に泳ぐ鯉を見ながら登り坂の歩道を駐車場へ急いだ。駐車場のバスには誰もおらず、暫く休んでいると1人2人と帰ってきたが、まだ4人は姿さえ見えず幹事が見に出かけたが、予定時間を大分オーバーして知覧特攻・平和記念館へ向った。

 知覧特攻・平和記念館には5分で到着したが、途中街路樹も桜に変わり燈籠が間断なく両側に並び御霊が供養されている事が直ぐに分かった。広い駐車場から歩き記念館が正面に見え、右側には特攻隊員の銅像、安らかにと母親像、T−3戦闘機、と並びそして正面に豊玉姫神社が見え参道左には数え切れない燈籠が幾重にも並び、その若き命の御霊に思わずこうべをたれ、戦争体験のホンの一部分しか知らない自分は今犠牲になった多くの若者の姿が去来した。

 先に進むと、当時掲げられていただろう看板「第40教育飛行隊・西部第123部隊」の石碑・墓石、燈籠に顕彰・歌碑として埋め込まれた母親の歌、社に進み、裏側に回ると記念館の横だが、「三角兵舎」が解放され人の出入が激しかった。

 記念館内は撮影禁止で、終戦末期の陸軍の特攻基地が設けられ、若者が尊い命を捧げ犠牲になった史実を後世に伝えるため、旧陸軍四式戦闘機「疾風」・三式戦闘機「飛燕」が展示されている。

 15時50分に出発して、226号線、232号線、238号線と走り、途中で指宿スカイライン、喜入カントリクラブ入口道路などを見送り、JR指宿枕崎線を跨ぐと八幡川を渡り、再び海岸線に出てきた。喜入寺前交差点で左前には新日本石油基地の綺麗に並んだタンクが現れ、旧喜入市街に入り海岸線の波打ち際を走り、右側には再び現れたJR指宿枕崎線と並行して走り、JRが離れて近寄ってくると鹿児島市と指宿市の境の瀬崎へやってきた。

 暫くすると海岸線とも離れ、宮ヶ浜辺りでは海岸線の先に知林ヶ島が現れ、ドライバの説明では大潮の時には地繋がりに成るといっていた。湊川を渡ると道路も鉄道も右にカーブした町並みが現れ目指す「吟松」は近そう。

 何処にでもあるような町のようでそうでないのが、街路樹に椰子の木が威風堂々と風に揺られている南国指宿温泉は30年ぶりの訪れだが、都会染みた綺麗さに変わっていた。それでも開聞岳は正面に見え、今日の泊り宿「吟松」に9人しか乗っていない大型バスは横付けになり、畳敷きの玄関ロビーなど洒落た造りで大勢の従業員に迎えられ、5階の部屋まで中央に吹き抜け空間や南国の花木を描いた、白薩摩焼の大壁画にまず目を奪われながらエレベーターで案内され、浴衣に着替えながら“
薩摩の良さ、南国情緒豊かな 錦江湾を 見渡しながら、和やかなひとときを お過ごしくださいませ”と係りの女性にいわれ、早速隣の砂むし温泉の「砂楽」へ向った。
 
 宿から海岸淵のコンクリート道路を歩く事5、6分護岸の外へ行く階段のを下りると砂風呂が見えるがいきなりとは行かず、3階建ての建物には外階段を使って2階に上がり受付を通して、受付で浴衣・タオル等をもらい、更衣室でフルチンになり
衣類をビニール袋に入れロッカーの中に入れ、素足で1階に下りて先ほどの階段まで行き、ヨシズ張りの砂に横たわり自分でヨシというまで蒸されるが下からズンズン暖められるのがなんともいえず時の経つのも忘れて波の音を聞きながらの一時は天国天国。

 砂をどかして立ち上がると着ていた浴衣はグッショリ濡れていて10月の風でも冷たさを感じ砂を払い除けて会館の天然の温泉、そして遠赤外線サウナでゆっくり、リラックスすれば身も心も軽くなり今夜の宴会もぐっと気合が入る。

 今日の宴会は肝心の女気はなく、酒とカラオケでは十二分には発散できないというものだ。前回30年前には100人近くの団体旅行だったが”焼酎三昧”でドンだけ飲んだか分からないほど飲んだが二日酔いもしなかった。今夜はビールと竹に入れお燗した日本酒では、いささか南国鹿児島なら焼酎の趣も崩れ、拍子抜けというものだ。

 部屋で始めた二次会も盛り上がらず、最上階の野天風呂に入り12時前には床に入り、はや異国の人となり朝4時に他人の携帯の目覚まし曲で目が覚めるとウトウトしながらも7時まで寝ていた。皆は朝風呂に行っていたが、糞詰まりにあい苦しみもがき何とか処理して朝風呂に入り朝食を取って土産を買うと出発時間になっていた。

羽田
指宿
第2日目

担当:JTB(井野口洋介)



担当幹事:上田さんと山下さん