佐渡の能楽堂






 
 佐渡は、農家の人たちが畑仕事で謡曲を口ずさむほど能の盛んなところ。能がこれほど庶民の生活に浸透している土地柄は、全国でも珍しい。

 このことは、能の大成者・世阿弥が佐渡に流されたことと無縁ではないかもしれないが、佐渡の初代奉行・大久保石見守長安が能楽師出身ということもあって、佐渡が天領になってからのほうが影響が大きいようだ。

 佐渡に残る最古の演能記録に、寛永12年(1535)当時の奉行・伊丹藩磨守が相川の春日神社祭礼に能を奉納したとあるので、これが佐渡の能が神に奉納される神事としての歩みはじめる最初といっていいのかもしれない。現在全島に34の能舞台があるが(かつては200以上といわれる)その大部分は、神社の拝殿と兼ねたものや付属したものであり、由緒を誇る「国仲四所の御能場」といわれたものも、大膳神社(真野町)・加茂神社(畑野町)・牛尾神社(新穂村)・若一王子神社(佐和田町)とすべて神社。ここで毎年決められた日に能を奉納してきたというから、佐渡の能が神事能として始まり、庶民の手で村々の鎮守の祭りの場へと広まっていったように思われる

 それまで奉行所の役人たちの教養としても武士の能が、庶民の能へと広がっていったのは、本間家初代の秀信が宝生座を開いてからといわれる。この宝生座が村々・町々に門下生を得、それぞれの神社に能を奉納、徳川中期以降、佐渡民間能楽の宗家として島中に影響を及ぼしていったとみられる。本間家は現在18代目で、今も佐渡宝生流の家元。吾潟の本間家能舞台では、毎年7月の最終土・日曜に定例能が催されている。このほか薪能が毎年6月第1土・日曜〜第3土・日曜に各地に開催されるなど演能会は今も盛んだ。(問い合わせTEL=0259-74-3318佐渡観光協会)

 また江戸時代に観世の座付きだった鷲流狂言が真野町に残る。これは明治以降、和泉・大蔵の流派が伝承されているのに対し、鷲流は消滅したと思われていたものが、島の一隅に命脈を保っていたといういわば佐渡ならではの風景といってよく、佐渡の能に花を添える貴重な存在だ。(県文化財)

 いずれにせよこのように長い間培われてきた佐渡の能・狂言は、高い水準と優れた感性で島に残るほかの多くの芸能と同じように佐渡庶民のバイタリティのあらわれといえそうだ。

 佐渡も日本の他の地方と同じように島内各地の遺跡から1万年以上も前の古代から人が住んでいたことがわかっている。

 佐渡にはっきりと本土から人や文化が入ってくるのは、日本が国として出来あがった8世紀ごろから。佐渡はすでに一国として、750年ごろに国府が置かれ、国司も派遣された。真野町の国分寺、小木町の蓮華峰寺、畑野町の長谷寺などの存在がそのことを物語っている。そのころから、伊豆や隠岐とともに佐渡が遠流の島と定められた。

 養老6年(722)万葉歌人の穂積朝臣老が佐渡に流されて以来中世までは、流人のほとんどが政争に敗れた人たちだった。その数76人といわれ、彼らの都での生活ぶりがいろいろな形をとって佐渡に伝えられたといえる。

 佐渡が歴史上にクローズアップされるのは、やはり佐渡金山の発見からといっていい。佐渡は古くから金や銀の出るところとして知られていたが、徳川家康は佐渡金山の有望性に目をつけ、天領として金山開発をすすめた。そして最盛期の17世紀初めには世界一といっていい生産量を誇った。それまで寒村だった相川は4万人もの大きな町にふくれあがり、金の積出港として小木も栄え、そこを窓口に新しい文化も流入した。

 幕府の財政を支えてきた金山も、江戸末期にはすっかり衰え、明治になると日本が世界の仲間入りしたのにひきかえ、佐渡は金山とともに時代に取り残されていった。佐渡の玄関口だった小木や赤泊の港も次第にさびれ、変わって両津港が発展するようになる。両津港は、安政5年(1858)の日米通商条約で開港した新潟港の補助港に指定されてから、佐渡の表玄関として登場し、いまや両津航路は佐渡へのメインコースとなっている。

 このような新しい時代の流れの中で、島民は苦難の道を歩むが、そんな中でも多くの優れた人材を生み育て、歴史遺産をかたくなに守り、美しい自然を残してきた。このことは、人間の文化とは何かという永遠の問いかけを、島民一人ひとりが体で表現してきたものだといえるかもしれない。

 佐渡の名前は、アイヌ語の「サト」(山と山に囲まれたところの意)からきているのではないかと地元民族学者は伝えています。その通り、佐渡は北東から南西に2条の地累山地が雁行しており、北側を大佐渡山脈、南側を小佐渡山脈と呼び、その間を穀倉地帯の国中平野が結んでいます。
 佐渡へ渡るには、新潟港(新潟市)から佐渡への玄関口である両津への航路と、直江津港(上越市)から小木。寺泊港(三島郡寺泊町)から赤泊港への3つのコースがあります。(これら船便以外にも、空路(新潟〜両津)がある)すでにご存じの通り、佐渡にはいくつかの顔があります。島の大部分が「佐渡・弥彦国定公園」となっており、風光明媚で、海の幸、山の幸に恵まれている。

第84代
順徳天皇

 
鎌倉幕府転覆に失敗し、北条義時により承久3年24歳の若さで佐渡に配流されました。在島22年、都に帰る望みも絶え)。
 思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは
                                           
(順徳天皇辞世の御歌)
との痛ましい御製を残し46歳の若さで崩御されました。
 
日蓮

 1271年(文永8年)北条時宗の勘気を受けて鎌倉竜ノ口で御難があり、処刑されようとした聖人がひたすら題目を唱えたところ、雷光の奇跡が起こり難を免れたといいます。翌日死一等を減じられた聖人は、佐渡へ流罪となりました。
 文永8年10月佐渡配流の時、海上がにわかに荒れ始めましたが、日蓮聖人が水竿で題目をお書きになると、波風が治まったと伝えられています。
 一間四方の寒風吹きすさぶ塚原の草堂で、寒さと飢えに耐え、つめかけた諸宗の僧徒と激しい法論を交わしました。後世、これを『塚原問答』と伝えています。

 降り積もる 雪の塚原 つつがなく たけき心に 冬過ごしけり (香取秀真)
 
佐渡ヶ島での生活は、大変厳しかったと言われています。日蓮聖人は、50歳から52歳までの短い在島期間でしたが,佐渡ヶ島で「南無妙法蓮華経」の袈裟文字を図顕真筆され、「開目抄」「観心本尊抄」を著して日蓮宗を確立しています。

能の大家世阿弥

(美の極限を極めようとした能楽者観世元清は、足利義教に疎まれ72歳の高齢で佐渡へ配流となりました。
 日照り続きのある夏、観世元清が島民を救おうと雨乞いの舞を舞うと、大粒の雨が降り出し、
ひび割れた大地が見る見る内に潤い島民を驚かせました。島民は雨の中に立ちつくし、世阿弥の舞に見とれたといいます)。

 など、多くの哀しい流人の島としての顔であり、そうした人々が伝えた多くの貴族文化が今も生き続ける島です。さらには江戸時代に西回り航路がもたらした大阪、堺、長崎などの上方文化が脈々と息づいている島でもあります。
そして、徳川幕府の重要な財源を賄った島でもあり、特に江戸初期の慶長、元和、寛永年間にかけての金銀産出量は莫大であり、年間金100貫匁、銀1万5千貫匁にのぼったという記録があるくらいです。

 人口も、当時10万人を超えたといわれ、いきおい、西回りの水夫や佐渡金山の坑夫達の相手をする遊女屋も軒を連ねていました。そんな具合で、佐渡には造り酒屋が多くありました。享保年間(1716〜1735)には、相川だけでも造り酒屋が72軒、濁酒屋が82軒もあり、幕末にもなると佐渡一国に250軒余りありました。これが、明治に入ると次第に減り、明治20年には109軒、合計1万石を超える位でした。