高速道
(埼玉県編)
鳩ヶ谷
市制施行: 昭和42年3月1日 |
市章:ハトを左右に並べ円形にデザインし鳩ヶ谷町時 代の町章で平和の鳩を輪に力強い線でシンボライズ |
位置:東経139°44´41" 北緯 35°49´23" |
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面積:6.22ku |
人口:59,501人(外国人含む) (男30,327人、女29,174人) |
世帯数:24,735世帯 平成18年9月1日 |
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市の木:モクセイ | 市の花:カーネーション | 市の鳥:キジバト |
日光御成道は、将軍が日光東照宮に参拝するために利用された街道でした。御成道にも一里塚や並木が有り、今でも北区西ヶ原・大宮市膝子・白岡町下野田・杉戸町下高野の一里塚は大切に保存され、岩槻から幸手の間には、杉や松の並木が昔の面影を残している。
鳩ヶ谷宿は江戸から4里半(約17km)岩淵・川口に続く宿場です。宿の規模は大きくなく天明6年(1786)で家数198軒・人口821人でした。宿場へ向うと松並木が続く現市内の前田村に入り、そして仲居村(現八幡木)と小渕村を通り、日光社参の時、将軍が小休止したのは、小渕村で、平柳用水に沿って辻村に進むと鳩ヶ谷宿の下宿(しもじゅく)で、見沼用水に架かる板の吹上橋を渡ると左右に榎を植えた一里塚がある。坂を上ると宿の中心・中宿で、右の千手院に続いて本陣がある。
左の宮近くで宿内の日光御成道の左右には巾の狭い堀が有り、その奥に商家が並んで、空地を使い大きな三八市が開かれた。左右の市場杭と右の高札場を見ながら上宿へ進むと浦寺村へ続く。
鳩ヶ谷の本陣は代々舟戸家が勤め、宿の長である名主と商品を扱う問屋も兼ねており、酒を造り酒の道具を扱うこともあった。初代の舟戸大学助は天正7年(1579)の文書にもその名がみられ、江戸末まで14代も続いた。本陣のあった所は、街道に面した宿の中心・中宿で、ちょうど今の市役所の反対附近にあたり広い敷地内の建物は73坪(約241u)あった。本陣とは、将軍や大名などの特別な人が休憩したり泊まる所をいう。一般の人の泊まる所は旅籠屋という。
蕨
市制施行: 昭和34年4月1日 |
市章:回りの円は蕨の「ワ」を、また円の 中の右側にカタカナの「ラ」、左側に「ビ」 |
位置:東経139°41´ 北緯 35°49´ |
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面積:5.10ku |
人口:68,042人 (男34,929人、女33,113人) |
世帯数:31,688世帯 平成18年9月1日 |
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市の木:ケヤキ | 市の花:サツキ | 海抜:5.2m |
蕨の地名の由来には、藁を焚く火が遠くから見えたことから「藁火村」と名付けたのが「蕨村」になったとする説やこの近辺に芝・笹目・青木・美女木など植物に関する地名が多いことからやはり植物名の蕨から名付けたという説もある。どちらも疑問が多く定かではないが、天正19年(1591)徳川家康から寺領20石の朱印状が与えられた。三学院の朱印状に蕨の文字が使われている。
蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えました。慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられています。本陣絵図面等によれば公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折りに御休息の場となり、明治元年(1868)・同3年には明治天皇が大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
昭和21年11月混迷するさなか、蕨町青年団は復員してきた先輩たちを暖かく迎え、自分たちの町を平和で住み良い町にしようと話し合い、蕨第一国民学校の校庭に20才を迎えた成年者を招き、全国に先駆けて成年式を行い。昭和23年7月に成人の日が制定され、以来全国各地で成人式が催されるようになりました。
川口
市制施行: 昭和8年4月1日 |
市章:外側三重の円形が「川」を中心の菱形が「口」 を表し旧川口町章で、昭和8年9月18日市章に |
位置:東経139°43´38″ 北緯 35°48´17″ |
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面積:55.75ku |
人口:498,379人=外国人含む (男254,873人、女243,506人) |
世帯数:216,626世帯 (平成18年9月1日) |
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市の木:サザンカ | 市の花:鉄砲ユリ | 海抜:2.06m |
川口に人間が住み始めたのは、今から約2万年前といわれている。戦国時代には、太田氏や北条氏の支配を受け、日光御成道は徳川家康の霊廟を日光に移した元和3年(1617)以降整備され、川口にも将軍の日光参詣に伴う休憩所(錫杖寺)や駅逓業務を行う問屋場がおかれ、享保13年(1728)の見沼代用水路の開さくによる舟運・陸上交通の整備に伴って商品の流通が盛んになり、今日の川口の発展の基となる種々の産業が起こり、江戸時代中期からから鋳物や植木などの産業が発達。川口という名称は、旧入間川(現在の荒川)の河口に臨んでいたことからといられ、今の本町1丁目と金山町を中心に300戸ほどの家が集まっただけの小さな町で、現在賑やかな川口駅前や栄町・幸町付近は見わたす限りの田畑や湿地帯であったといわれています。明治末期には鋳物工場が150軒ほどになり、荒川や芝川を利用しての原料や製品運搬が行われましたが、その後川□町駅・新荒川大橋ができると川口は鋳物産業を中心に飛躍的発展をとげ、「鋳物の街川口」の名は全国に知られるようになった。
戸田
市制施行: 昭和41年10月1日 |
市章:「融和・団結」と産業、 文化の飛躍的「発展」を象徴 |
位置:東経139°41´01" 北緯 35°50´40" |
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面積:18.17ku |
人口:117,610人 (男61,387人、女56,223人) |
世帯数:52,117世帯 (平成18年9月1日) |
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市の木:モクセイ | 市の花:サクラソウ | 海抜:1.68m |
狐の話
むかし、川岸に住むおばあさんが、夜遅くなって道をいそいでいますと、前を小僧っ子がチョコチョコ歩いておりました。「これ!これ!こんなに遅くどこへ行くの!」と聞きましたところ「わたしですか」といって、ふいむいた顔がなんと、おどろいたことに口が耳までさけた狐の顔だったのです。それから、おばあさんは子どもたちにけっして夜遊びをしちゃだめよと、いうようになったのだそうです。
また、ある春のあたたかい日のこと、川岸に住むおじいさんが魚や貝をいっぱいビクにいれての帰りみち、とつぜん大水がでて腰までつかってしまい歩きながら「おお深い、おお深い」といっておりましたところ、土手の方で皆が笑っているのです。
「なにがおかしい!」とおこったところ、「おじいさん、菜の花畑に入って同じところをグルグル歩きまわって、何してるんだね」といわれ、ハッと我にかえり足もとを見ますと水など一滴もなく菜の花畑の真ん中で立っておりました。ビクには魚も貝もすっかりなくなっておりました。
むかしの人は、生ぐさいものを持ち歩くと狐に化かされるといいました。ただ、狐にも弱点があってマッチのイオウのにおいがきらいとか、たばこの煙に弱いといわれています。
志木
市制施行: 昭和45年10月26日 |
市章:四方に益々発展すると同時に丸を あしらって調和の取れた発展を図案化 |
位置:東経139°35´ 北緯 35°50´ |
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面積:9.06ku |
人口:68,357人 (男34,328人、女34,029人) |
世帯数:28,362世帯 平成18年8月31日 |
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市の木:モクセイ | 市の花:ツツジ | 海抜:2m |
新座郡の前身である新羅郡(しらぎぐん)は、天平宝宇2年(758)に渡来新羅人74人のために新設された郡で、現在の和光市にあたる志木郷と新座市にほぼ推定されている余戸(あまるべ)郷の2郷を擁するのみの小さな郡でした。志木地区周辺も近隣の入間郡や豊島郡などに比べると未開発地であったものと思われます。
平安末期頃になると東北地方を柳瀬川によって限られているという防御上最高の地理的位置が買われてか、伝説上の豪族田面長者藤原長勝(たのものちょうじゃふじわらのおさかつ又は、ながかつ)がこの地に館を構えこの地域を支配していたといわれ、今でも残る「館(たて)」という地名は、長勝の居館(志木第三小学校付近)に由来するといわれる。
大塚という地名は、一般的には古墳が多くあったところから起こった地名とされており、古墳が多くあったところから「多塚」といわれていたので大塚に変わったとも伝えられている。
荒川の支流の新河岸川は古くは内川と呼ばれていました。ところが寛永15年(1638)1月に川
越に大火があり、日本三大東照宮の一つである仙波東照宮が焼失すると、これを復旧するため江戸城紅葉山御殿を分解して移築することになり、その時、当時古市場(現川越市)ないしその少し上流あたりまで水運がおこなわれていた内川が着目され、現在の新河岸の地点まで遊水池をつないだり、掘削したりして新水路と河岸場を作った。数多くの河岸場が設けられた。その数は、河の口(現和光市)までに23カ所、荒川に合流してから浅草花川戸(現東京都台東区)までの荒川筋に16カ所余りに及んた。
隆盛を極めた新河岸川舟運も大正10年からの河川改修により水位が低下し、舟の航行が著しく困難となったため、昭和6年に県から通船停止令が出され、ここに300年以上にもわたる物資輸送の役割を終えることになった。
志木の中心を流れる新河岸川と柳瀬川、そして、東を流れる荒川と、3本の川が志木のシンボルともなっていますが、特に歴史的には、新河岸川の舟運で栄えた商業都市として発展し、昭和40年頃から首都近郊25km圏内で、都心まで20分という好条件から、人口も急増し、住宅都市としても発展してきましたが、自然や田園風景も残されており、市の基本構想に定めている。
朝霞
市制施行: 昭和42年3月15日 |
市章:「アサカ」の3文字を合体させて、飛鳥の 姿に図案化、市の和と団結を表す |
位置:東経139°35´39" 北緯 35°47´50" |
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面積:18.38ku | 人口:125,491人(外国人含む) (男64,640人、女60,851人) |
世帯数:55,809世帯 | |
市の木:ケヤキ | 市の花:ツツジ | 海抜:2m |
今から約3万年前の旧石器時代。人々は、厳しい寒さの中を大きな動物を追って、石器を使って狩りをしていた。移動しながら生活をし泉水や幸町など、黒目川沿いの台地上では、火を使った跡や石器などの遺物が見つかっている。約1万年前になると、気候は温暖になり、現在とあまり変わらない自然環境になった。温暖化の影響で海岸線が関東平野の奥まで入り込み、荒川(旧入間川)沿いの低地は、ほとんどが海となりました。そこからは魚貝類など、豊かな海の幸を得ることもできた。
奈良時代は、渡来人により海外から多くの文化や技術が伝わった時代で、天平宝字2年(758)には、武蔵国に新羅人を移し、「新羅郡」が置かれ、この郡は朝霞周辺にあったと考えら、平安時代には「新座(ニイクラ)郡」と名称が改められた。
朝霞は鷹場が置かれるほど、自然豊かな土地で広大な林野があり、こうした林野は、秣場と呼ばれる肥料や燃料、建築材料の供給地として共同利用された。将軍が鷹狩を行う御拳場と尾張藩の鷹場となり、鷹場の村々には様々な規制がかけられ、村々の負担となった。台・根岸・岡が御拳場に、膝折・溝沼・浜崎・田島・宮戸・上内間木・下内間木が尾張藩の鷹場に、江戸と川越を結ぶ川越街道も中山道の脇往還として整備されました。そして、江戸から4番目の宿場として、膝折宿が置かれました。宿場には、本陣や脇本陣がありました。しかし、次第に交通量が増加したため、宿場の負担は重くなった。しかし、享保の頃(1716〜1735)になると、新田開発が盛んに行われ、畑に姿を変えていった。
明治維新により、朝霞の村々も新たな時代を迎えた。荒川や新河岸川は、用水や食料確保の場の他に、人や物資の輸送手段としての舟運に盛んに利用されていた。
昭和7年(1932)、東京ゴルフ倶楽部の移転を契機に、膝折村は町制施行し、朝霞町になった。終戦を迎え、アメリカ軍が進駐し、キャンプ朝霞がつくられ、この後、約30年間にわたり基地の町として歩み、昭和35年には自衛隊が駐屯、昭和49年に基地返還要求運動が盛り上がり、ついにキャンプ地のほとんどが日本に返還された。キャンプ朝霞の跡地に小学校をはじめ、陸上競技場などの各種の公共施設が整備され、市民のスポーツ・文化活動、さらには憩いの場として利用されている。
和光
市制施行:昭和45年10月31日 |
市章:「和」と「光」を図案化した |
位置:東経139°36'32" 北緯 35°46'41" |
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面積:11.04ku |
人口:75,123人 (男、39,079人、女、36,044人) |
世帯数:34,432世帯 |
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市の木:いちょう | 市の花:さつき | 海抜:40.71m |
大和政権の行政機構は、「国−郡−郷−里」となっていた。「国」は規模によって大・上・中・下の四段階に分けられ、武蔵國は「大」国とされていた。各地の国には行政機関として「国府」(国衙)が置かれ、郡にも役所(郡衙)が置かれた。「郡」は、郷の数によって大・上・中・下・小の五段階に分けられ、「郷」は戸数50戸をもって構成するという基準が定められていた。50戸に満たない場合は「余戸郷」(あまりべ)がつくられた(50戸1郷制)。
平安末期には、児玉党の流れをくむ庄(荘)一族がかなりの実力を持っていました。その上地方官として関東に勢力を拡大した桓武(かんむ)平氏の一族が、常総、下総とならんで武蔵秩父地方に力を振るい、河越氏、江戸氏、畠山氏、小山田氏、稲毛氏、豊島氏、葛西氏などはみな秩父氏の分派で近隣の武士団の指揮をとり、この地域は豊島氏の支配下でもあった。
室町時代中期以降になると、鎌倉府は、鎌倉公方側と関東管領上杉氏が対立し、公方側はさらに古川公方と堀越公方に分裂しました。武蔵豊島郡地域を支配していた名族豊島氏は古川公方足利成氏に味方したが、文明9年(1477年)扇谷上杉氏の重臣太田道灌(どうかん)に滅ぼされた。
天正18年(1590)、関東は後北条氏に代わって徳川家康が支配するようになり、家康は、関東の各地に家臣を存在させるに当たって、小領主を江戸に近く、大領主を江戸から比較的遠い所に配置した。寛永年間の家康による検地で村の石高がきめられました。寛永検地からおよそ10年後の正保年間の石高(1石は米に換算すると150s)は、上新座村500石、下新座村約400石、白子村145石で、どの村も田の比率が高く、畑は田の半分くらいの石高でした。年貢は、田については米で払い、畑については貨幣で支払われた。
また、年貢の他に野銭もおさめた。これは村の周辺の広大な野原や、荒川茅原の草を堆肥、馬の飼料、燃料、屋根の葦材料に利用する為の税金です。
さらに、川越街道の宿場間の輸送の手伝いに、人手と馬を村の石高に応じて出す助郷役(すけごうやく)の負担があった。
南東部にあり、市域は都心から15〜20km圏内に昭和45年、埼玉県で29番目の市として誕生。豊かな自然環境と便利な都市環境をあわせ持つまちとして、現在も大きく躍進を続けている。
新座
市制施行:昭和45年11月1日 |
市章:新座のニとザをロゴタイプによって構成 |
位置:東経139°34'06" 北緯 35°47'26" |
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面積:22.80ku | 人口: | 世帯数: | |
市の木:モミジ | 市の花:コブシ | 海抜:38.3m |
「新座(にいざ)」という名称は、天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置されたことに由来します。明治に入ると廃藩置県及び市町村制により、野寺村、中沢村、十二天村、下中沢村、下片山村、石神村、原ケ谷戸村、辻村、掘ノ内村、栗原村の10ヵ村が片山村と合併し、また野火止村、北野村、菅沢村、西掘村の4村が大和田町と合併しました。町村合併促進法により昭和30年3月、大和田町と片山村は合併し、古い地名の新座郡(にいくらごおり)から名をとり、新座町(にいざまち)となり、昭和45年11月1日市制が施行され、現在人口15万人余りの人口を擁する首都圏の中堅都市となっています。
野火止用水は、承応4年(1655)川越城主松平信綱の命をうけた安松金右衛門が工事を指揮し完成させたと言われ、同用水は玉川上水より取水し、東京都清瀬市・東久留米市より市内に流れこみ、志木市を流れる新河岸川を越え宗岡地区まで達していた。
所沢
市制施行:昭和25年11月3日 |
市章:ヤマノイモ科の多年生つる草の 「野老(ところ)」の葉を図案化 |
位置:東経139°27'25" 北緯 35°47'50" |
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面積:71.99ku |
人口:339,140人 (平成18年7月31日現在) |
世帯数 139,018世帯 (平成18年7月31日現在) |
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市の木:いちょう | 市の花:茶の花(白) | 市の鳥:ひばり |
武蔵野台地のほぼ中央にある所沢市にはいつ頃から人が住み始めたかは明らかではありませんが、昭和41年に三ヶ島の砂川遺跡、その後下安松、荒幡、北野からも先土器時代の石器が多数発掘されていますので、少なくとも一万年以上前から人々が住みついていた様です。
地名の起源は、平安時代に在原業平朝臣が東国巡行の折に当地に来て野老(ところ=ヤマイモ科の多年生つる植物)が多く野生しているのを見て「野老(ところ)の沢か」口づさんだのに由来していると伝えられている。
「ところざわまつり」は、山車が中心のお祭。
明治初期から山車の曳きまわしが行われ同後期には9月15日に催される神明社・秋の祭礼に各町内から山車が集り、歴史ある山車とその上で繰り広げられる重松流祭囃子。これは、いにしえの所沢を偲ばせるお祭といえる。明治末期の山車祭り、これに参加する町内は下記の8町内であったと記録が残っておりました。5年に1度 2日間開催され、次回は2010年。
上町(元町本町・1番)/上仲町(元町東・2番)/下仲町(寿町・3番)/浦町(有楽町・4番)/
下町(御幸町・5番)/河原宿(宮本町・6番)/金山町(7番)/日吉町(8番)
1、ハァー 恋し狭山湖つゝじの小みち 2、ハァー あなた織糸わたしは織娘 3、ハァー 秋はうれしや商工祭 |
4、ハァー 君を待つ夜の狭山の新茶 5、ハァー 僕の心は種無し西瓜 6、ハァー 踊や輪になれ二重に三重に |
三芳町
町制施行:昭和45年 | 町章:「ミヨシ」は円形にデザインし融和と 団結を表し、中央 にはばたく鳥を図形化し |
位置:東経139°31' 北緯 35°50' |
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面積:15.30ku |
人口:36,628人
男18,538人、女18,090人 |
世帯数:13,873世帯 平成18年8月31日 |
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町の木:けやき | 町の花:きく | 海抜:37.5m |
原始・古代:三芳町の曙は約3万年前の旧石器時代にさかのぼることが、「藤久保東遺跡や藤久保東第二遺跡」から発掘された石器によって明らかにされている。中世・近世:鎌倉時代から室町・戦国時代の武蔵野は見渡す限りの原野でした。鎌倉武士が馬を走らせたとされる「鎌倉街道」が藤久保と竹間沢にあり、竹間沢には中世を思い起こさせる文化財や地名が残されている。徳川家康の関東入国以降、武蔵野台地の開発がすすみ、元禄7年(1694)、川越藩主・柳沢吉保による「三富新田開拓」が実施されるに及び、三芳の旧4ヵ村が成立。近代・現代:明治22年(1889)4月1日の町村制施行により、上富村、北永井村、藤久保村、竹間沢村が合併して三芳村が誕生。首都近郊のベッドタウンとして、また、首都圏の流通基地としてめざましい変貌を遂げている。
狭山
市制施行: 昭和29年7月1日 |
市章:中央にカタカナの「サ」を置き、周囲に山を配置し 常に安定を保持し、山を以て囲んだのは市民共同一致 |
位置:東経139°24'43" 北緯 35°51'11" |
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面積:49.046ku | 人口:259,750人(外国人含む) (男80,963人、女78,787人 |
世帯数:64,085世帯 平成18年9月1日 |
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市の木:茶の木 | 市の花:ツツジ | 市の鳥:おなが | 海抜:77.2m |
逃げ水の里
入間地区の水野(みずの)の方に「逃水(にげみず)」という地名が今も残っております。このあたりは一面の荒野で、入間川から遠くはなれておりますので、たいへん水にはこまっておりました。水があまりに少ないために、畑の仕事がおわって帰ったときなどは、青草を刈っておきまして、その草の束(たば)で手足のドロを落とし、米のとぎ汁を集めてフロにしたり、それはもう水に不自由したといわれます。そのため七曲井(ななまがりのい)、堀兼之井(ほりかねのい)のような深い井戸をほったあとが、今も残っております。
「所沢」のことをまだ「とろろ沢」といったころ、旅人がとろろ沢の方へ行くために、この地を通りかかりました。その日は暑くて、とてものどがかわきました。ところが旅人は、あいにくと水入れを持ちあわせていなかったとみえ、あたりに水はないものかと見わたしました。と、はるか雑木林のすそのの方に、水の流れが見えます。よろこんだ旅人は、かけ出してその水に近づきました。するとどうでしょう。さっきのところに水はなく、どんどん遠くにはなれて行きます。いくらおっかけても、水は遠くにしか見えません。走りつかれた旅人はすっかりあきらめ、フラフラになってとろろ沢の方へ走って行きました。
そして、この話が広まり、いつか逃水の里といわれるようになったということであります。
この逃水については、蒸気説、陽炎(かげろう)説、蜃気楼(しんきろう)説などがあり、武蔵野の逃水といわれて有名になり、古歌にもしばしば読まれております。
だいだらぼっちの足跡
だいだらぼっちが日本中を歩きまわっていたころのことです。(だいだらぼっちとは、ダイダラ坊ともいい、山をつくる神さまのことです)ある日、だいだらぼっちは、富士山の頂上に腰をおろしまして、びわ湖の水で顔をあらいました。そして、ひと息つきまして、立ち上がろうと、筑波(つくば)山に「ウムッ」とばかり、かた手をつきました。と、どうでしょう、三角の形をしていた筑波山の頂上が、まん中から、グシャッとへこみ、今のように男体と女体にわかれてしまいました。そして、立ち上がってから、大きなのびをして、ノッシ、ノッシと秩父の方へ行ってしまったということです。
このだいだらぼっちの足あとだと言われているものが、狭山にもあったということです。柏原(かしわばら)の下宿(したじゅく)から上宿(うわじゅく)の方へ行く途中に「だんご坂」という小さな坂がありますが、この坂のすぐわきの畑の中に窪地があって、だいだらぼっちが、このあたりを通りかかったときにできたものだといわれております。
また、だいだらぼっちの伝説は、埼玉県下にも、秩父地方を中心にたくさんあります。そして、足あとといわれているものが、となりの入間市や川越市の笠幡(かさはた)の方にもあるそうです。
川越
市制施行:大正11年12月1日 |
市 章:「川・コ・エ」を図案化 |
位 置:東経139°29'20" 北緯 35°55'19" |
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面 積:109.16ku |
人 口:332,844人 (男167,476人、女165,368人) |
世帯数:131,740世帯 (平成18年9月1日) |
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市の木:かし | 市の花:山吹 | 市の鳥:雁 |
15世紀中葉に期限をもつ城下町・川越は、江戸時代(1603〜1867)には将軍の府・江戸の北西の防衛拠点として、有力大名が代々の城主に任じられました。川越ではかつて商家が競うように「蔵造り」を建て、「蔵造り」とは、類焼を防ぐために江戸で発達した耐火構造の商家建築です。喜多院は、830年創建の名刹。17世紀前半に三代にわたる徳川将軍の厚い信頼を得た天海僧正がこの寺を興隆させました。1638年の火災で山門以外を焼失しましたが、将軍・徳川家光の命で再建。江戸から近いこともあり、川越街道は中仙道よりも早くから物資輸送に使われ、新河岸川を利用した船の運搬も盛んになり賑わった。
川越の総鎮守、氷川の杜
欽明天皇の時代に大宮市の武蔵一宮から、江戸時代には川越城下の総鎮守となり、嘉永3年(1850))に建てられた本殿は、川越まつりの山車の人形を主題にした彫刻がほどこされています。
川越まつり
川越まつりは、川越城主松平伊豆守信綱が祭礼用具を寄進したことに始まり、しだいに江戸の「山王祭」「神田祭」の様式を取り入れながら変遷を重ね、およそ350年にわたって受け継がれてきた。
山車
山車は、一般に町名または人形名で呼ばれ、それぞれの歴史上の人物などを題材にした人形をせり出して蔵造りの町並みをゆるやかに練り歩く様子は、まるで錦絵の様です。電線が地中化されたまちは、山車巡行にかっこうの舞台になる。
C58-363型のSLで、全盛期は東北地方で活躍し、1988年から秩父鉄道熊谷〜三峰口間の運行がスタート。3月下旬の桜の季節から11月下旬の紅葉シーズンまで、「SLパレオエキスプレス」号。
鶴ヶ島
市制施行:平成3年9月1日 |
市章:「ツ」「ル」の文字を組み合わせ |
位置:東経139°23'47" 北緯 35°55'53" |
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面積:17.73ku |
人口:70,038人 (男35,123人、女34,915人) |
世帯数:27,264世帯 (平成18年8月1日現在) |
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市の木:マツ | 市の木:ツツジ | 海抜:40.66m |
地名「鶴ヶ島」発祥の地の周辺は、昔、鶴ヶ島という地名でした。このあたりは、雷電池方面から流れ出る清水により水田や沼地が広がっており、その中の小高い島状の地にあった相生の松に鶴が巣篭もったことから地名が名付けられたといわれている。
それは太田道灌が川越城を築いた(1457年)頃と伝えられている。
坂戸市
市制施行:昭和51年9月1日 |
市章:「サカ」の二字を極めて 近代的に意匠化した |
位置:東経139°24'23" 北緯 35°57'14" |
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面積:40.97ku |
人口:99,900人 (男50,244人、49,656人 |
世帯数:39,844世帯 平成18年9月1日 |
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市の木:カイヅカイブキ | 市の木:さつき | 海抜: |
「さかど」の地名の起こりについて、古くからいわれているのは源義家の家臣の坂戸判官教明が住んでいたので、その名が地名となったというものです。
しかし、教明が坂戸に住んでいたという証拠は、今のところありません。今のところ、「さかど」の起こりについては、残念ながらはっきりとわかっていません。
地形は概ね平坦であり、西部には秩父山系の先端がのびて、中央部の市街地を田園地帯が遠巻きに取り囲む、都市と自然の調和した理想的な環境にあり、安らぎに満ちた都市として形成され、さらなる発展を遂げている。
東松山
市制施行:昭和29年7月1日 |
マツヤマの「マ」を三つ組み合わせ |
位置:東経139°24'11" 北緯 36° 2'20" |
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面積:65.33ku |
人口:90,299人 (男45,530人、女44,699人) |
世帯数34,030世帯 (平成18年4月1日) |
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市の木:マツ | 市の花:ぼたん | 海抜34.87m |
東松山市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、松山城の城下町として発展し松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。
1954年7月1日に比企郡松山町・大岡村・唐子村・高坂村・野本村が合併し、東松山市となる。東京のベットタウンとして人口が増加。高坂ニュータウンや東松山マイタウンに代表されるような住宅団地が次々と造成された。
嵐山町
町制施行:昭和43年4月15日 | 町章:「ラン山」を上下に配し図化し、 融和、発展を象徴 |
位置:東経139°19'26" 北緯 36°03'12" |
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面積:2985.0 | 人口:19,368人 (男9,592人女9,776人) |
世帯数:世帯 | |
町の木:梅 | 町の花:ツツジ | 海抜:65m |
大蔵のやかた(民話)
大蔵の神社のあるところ、その近所に大蔵の館(やかた)があります。東西170m南北200m位の広さを持っています。今から830年くらい前、源義賢(みなもとのよしかた)が、ここに館を構え、自分の勢力の拡大を計りました。もとは京都で近衛院の春宮(とうぐう)帯刀の長という役につき、帯刀(たてわきせんじょう)先生源義賢といって、立派な侍でありました。勢力を張り一方の大将となるには京都にだけいたのではだめだと考え、父為義(ためよし)の領土だった上野国多胡(たこ)(群馬県多野郡吉井町)ヘ来た。そして大蔵の地が、武蔵武士として発展するのによいところと考え館を構えて勢力発展に努めた。
同じ頃、武蔵で大いに発展しようとした義賢の兄の子、源義平(悪源太)が父義朝と相談して、軍勢を引き連れ攻撃し、久寿二年義賢を討ち滅ぼしてしまいました。新藤貴司(たかし)さんのお家のわきの墓が義賢の墓です。
その時、義賢には2才になる駒王丸というかわいい男の子がいたのですが、大蔵館が討たれるという報に、母は駒王丸をつれてお家を逃げ出しました。そして山の中をあちらこちら逃げ歩いたのでしたが、ご飯が食べられずお乳も出ず、駒王丸が泣き止まないのでとうとう敵に見つかってしまいました。その時の敵方の大将は畠山重能という人で重忠のお父さんです。悪源太義平から「見つけ次第殺せ。」との命令ですが、かわいそうでとても殺せません。ちょうどその時、妻沼の斉藤実盛が来たので、駒王丸の乳母だった木曾の中原兼遠(なかはらかねとお)の奥様のところへ預けることにしました。これが後の木曾義仲という侍大将になりました。
深谷
市制施行:昭和30年1月1日 |
市章:2本のブルー系ラインで利根川と 荒川を表し、中央にまちをイメージした |
位置:東経139°17'05" 北緯 36°11'40" |
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面積:137.58ku |
人口:148,300人 (男74,134人、女74,166人 |
世帯数:52,209世帯 (平成18年9月1日) |
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市の木: | 市の花: | 海抜:30m |
平成18年1月1日、深谷市、岡部町、川本町、花園町がひとつになり誕生した新「深谷市」は、埼玉県北西部に位置し東京都心から70km圏にあり、北部は利根川水系の低地で、南部は秩父山地から流れ出た荒川が扇状台地を形成する平坦な地形となっている。
深谷(平成18年1月1日、岡部町・花園町・川本町とが合併)
市制施行: 昭和30年1月1日 |
市章:中央の円は市民の和合と、 共同一致して円満な発展 |
位置:東経139°17'05" 北緯 36°11'40" |
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面積:69.40ku | 人口:102,127人 (男51,185人、女50,942人 |
世帯数:36,067世帯 (平成17年4月1日) |
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つばき | チューリップ | ||
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岡部町(平成18年1月1日、深谷市・花園町・川本町とが合併)
町制施行: 昭和43年12月1日 |
町章: |
位置:東経139°14'16" 北緯 36°12'04" |
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面積:30.59ku |
人口:16,873人 (男8,660人、女9,175人) |
世帯数:8,425世帯 (平成17年4月1日) |
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町の木:キンモクセイ | 町の花:コスモス | ||
源平一の谷の戦で平忠度を討ち功名のあった岡部六弥太忠澄の在所である岡部町は、埼玉県の北 西部に位置し、首都から75q県内にあり、総面積30. 59ku、豊かな自然と歴史的資源を有する町 である。肥沃な農地に恵まれ、トウモロコシ、ブロッコリー、大根等の生鮮野菜の産地として出荷量、 出荷額とも県内でも上位に、漬物はかつて農家の副業として発生したものですが、現在では関東一 の生産量を誇り、町の産業の核として全国的に知られている。 |
花園町(平成18年1月1日、深谷市・岡部町・川本町とが合併)
町制施行:昭和58年6月1日 |
町章: |
位置:東経139°13'45" 北緯 36°07'46" |
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面積:15.82ku |
人口:12,866人 (男6,382人、6,484人) |
世帯数:4,048世帯 (平成17年4月1日) |
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町の木:もくせい | 町の花:福寿草 | 町の鳥:ひばり | |
誕生したのは、明治22年です。村名は戦国時代、当地一帯を領有していた藤田康邦の古城「花 園城」の名にちなんでつけられました。その後、昭和58年の町制施行により埼玉県内37番目の 町となり現在に至っている。 農業を中心に工業、商業がバランスよく営まれています。特に農業は、これまでの米作中心から 野菜や花木といった都市近郊型に移行し花は、ユリやチューリップ、キクなどがハウスを中心に多 種目栽培されていますが、とりわけ町の花でもある福寿草は全国一の出荷額を誇っている。 最近は、埼甲斐街道の秩父方面や山梨県への観光ルートのスタート地点としても脚光を浴びて いる。 平成18年1月1日から深谷市、大里郡岡部町、同郡川本町及び同郡花園町を廃し、その区域 をもって深谷市を設置することを決定するとともに、同日付で総務大臣へ届出が行われた。 |
川本町(平成18年1月1日、深谷市・岡部町・花園町とが合併)
町制施行:昭和52年2月11日 |
町章: |
位置:東経139°17'06" 北緯 36°08'09" |
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面積:21.77ku |
人口:12,109人 (男6,056人、女6,053人) |
世帯数:3,668世帯 (平成17年4月1日) |
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町の木:キンモクセイ | 町の花:福寿草 | ||
源頼朝に仕え、鎌倉武士の鑑とうたわれた畠山重忠公の生誕の地である。遠いシベリアから飛 来している白鳥たちが川本町の冬の荒川の顔となっている。 |
本庄
市制施行: 昭和29年7月1日 |
市章: 「ホ」で三方より円型に図案化したものです |
位置:東経:139°11'25" 北緯: 36°14'36" |
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面積:89.71ku |
人口:82,463人 男:40,858人、女:41,605人 |
世帯数:31,375世帯 |
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市の木:モクセイ | 市の花:月見草 | 海抜:38.0m |
本庄市は県内有数の大規模な原始・古代遺跡の分布地域で、その後、氏名(うじな)は児玉庄氏から庄氏を経て、やがて宗家(本家)は本庄氏を名乗るようになります。その本拠は、上越新幹線本庄早稲田駅の東方一帯で、現在も字東本庄の地名が残されている。
江戸時代になると中山道の整備とともに、「本庄宿」が建設されました。明治22(1889))年町村制の施行により本庄地区では、本庄宿が「児玉郡本庄町」となりました。昭和29年7月1日、本庄町と周辺4村は昭和の大合併により「本庄市」となり、旧本庄市と旧児玉郡児玉町も平成18年1月10日に合併し、新「本庄市」が誕生した。
地形は概ね平坦で安定した地盤を有していますが、水と緑豊かな自然環境に恵まれたところです。
上里町
町制施行:昭和46年10月28日 | 町章:「上」を4つ用い円になり、上里の上 、地図の上、合併村数など |
位置: |
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面積:29.21ku | 人口:31,611(外国人含む) (男15,743人、女15,868人) |
世帯数:10,864世帯 平成17年4月1日 |
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町の木:八重椿 | 町の花:サルビア |
江戸幕府によって整備された五街道(東海道・中仙道・甲州道中・日光道中・奥州道中)のひとつとして、この街道は上野・信濃・越後・越中・加賀国などの30余の大名の参勤交代のほか、日光例幣使の下向などもあり、また比宮(なみのみや・徳川家重室)・五十宮(いそのみや・徳川家治室)・楽宮(さざのみや・徳川家慶室)など徳川将軍家の夫人となるため東下した皇族や摂家の女性の多くは中山道を通った。街中には馬の飲み水や雑用のための水路が道の片側に設けてあります。村の中央には酒屋、髪結いがあり、村の端にかけて茶屋、一ぜんめし屋、菓子、とうふ、紙、わらじなどを商う家が軒をつらねていた。
江戸時代に入ると商品経済が発達し物資の運送が盛んになった。都市と農村を結ぶ流通の大動脈として川が利用された。上里町の北を流れる利根川や烏川も大事な流通の川として利用された。
高崎線は明治16年12月に新町まで開通した。明治30年5月に停車場建設の工事が開始され、停車場の用地などは各町村や地元有志からの寄付金を募って集め、11月に神保原駅が開設された。神保原駅の駅名の由来は地元の神保原村から付けられているが、もともとは石神村、忍保村、八町河原村のそれぞれ1文字を取って付けられた。