高速道

(長野県編)





軽井沢

町制施行:大正11年
市章:かるいざわの「か」と鳥が飛びたつ姿
位置:東経138°36’01”
         北緯 36°20’43” 
面積:156.05ku
人口:
世帯数:
町の木:こぶし 町の花:サクラソウ 海抜:934m

 縄文時代のいにしえより、軽井沢高原には人が住み、あちらこちらで集落を造っていたようです。軽井沢は高冷な土地ですが、鳥獣や果実・球根類が多く、古代の人々が住むのに適したところだったのでしょう。
 平安時代の軽井沢は、長倉と呼ばれ、馬の産地であるとともに、交通の要衝でもありました。入山峠(軽井沢町成沢と群馬県松井田町入山の境界)から、昭和30年に多くの石製模造祭器が発見されています。同様なものが、立科町の雨境峠や木曽山中の神坂峠でも発見されていることから、この入山峠が古代の主要幹道の一つであった東山道ではないかと考えられています。
 江戸幕府は、東海、中仙、甲州、日光、奥州の、天下五街道を定め、諸所に関所を置き、一里塚を設け、交通の便を計ると共に、通行人の取締りをもおこないました。この中山道は、江戸日本橋を起点として武蔵・上野の宿々を経て、碓氷峠を越えて、軽井沢を通り、追分けで北国街道(善光寺道)と分かれて小田井、岩村田、望月の宿をたどって、木曽路から江州草津まで67の宿場を持つ江戸五街道のひとつとして慶長7年 (1602) から2年がかりで、本格的に整備されました。
 明治17年碓氷新道(現在の国道旧18号線)の開通によって中山道沿いの旧宿場町は決定的な打撃を受け、更に、明治26年 (1893) に鉄道が開通し(上野〜直江津間)、この辺を歩く人はたちまち一人もいなくなりました。なにしろ、横川から三宿までの碓氷峠越えは、たっぷり一日の行程で、それ故に三宿は賑わったのであり、歩く旅人がいなくなれば、宿場の命数はそれまででした。
 維新後、信教の自由が許されると、欧米から続々と宣教師が入ってきました。明治19年 (1886) の夏、英人宣教師 A・C・ショウ氏なる人が、布教の途次、たまたま軽井沢を通ったところ、軽井沢の風光は、ショウ氏の耳目を驚かせました。風光は、樅の林、乱れ咲く高原の花、青い空気、太陽の輝き、住民たちの親切さ。ショウ氏は、望郷の念に駆られ、土地に魅せられ、ついに明治21年 (1888) 大塚山に簡素な家を建て、一夏を過ごしたのです。これが軽井沢の別荘の第一号です。
 「軽井沢」という地名は、実は全国いたるところにあります。語源については、アイヌ語説、古代出雲語説など諸説ありますが、いずれも、清冽な清水の湧く山里に、この地名があります。諸説によれば、”凍り冷わ(こおりさわ)”から転じたというものや、”軽石沢”からきたというもの、また水が枯れた”かれ沢”からきたと言うのもあります。更には、峠は荷物を馬から下ろして自分で背負って登らねばならなかったため、ふもとにはよく軽井沢(これは中古時代には背負うことを「かるう」といったことから「かるうさわ」が「かるいさわ」に転じたと思われる)。



佐久

市制施行:昭和36年4月1日
市章:「さく」の文字をデザイン
位置:東経138°28’37”
        北緯 36°14’56”
面積:423.99ku 人口:100,204人
(男48
,931人、女51,273人)
世帯数:35,576世帯
(平成18年7月1日現在)
市の木: 市の花: 海抜:692m

 佐久市は、北に浅間山、東に荒船山、南には八ヶ岳に囲まれ、南北に千曲川が貫流するすばらしい自然に恵まれた高原都市です。「お舟祭り」と云うと、安曇野の穂高神社が有名だが、佐久でも安原の英多神社周辺で、毎年、盛大に開催される。なぜ、佐久で海の神様に関するお祭りがあるのか? 昔、九州から千曲川を上がって佐久まで来た人々がいて、佐久の地で故郷を思い出し、始まったと云う説がある。新子田のお宮の所に「海」に関わる神様が祀ってあったり、香坂のあかる山を登って、志賀の方を見た偉いお坊さんが、琵琶湖に似た海のように大きな湖があったから、その地にお寺を建てたという伝説もある。

佐久市


























●内山峠、内山牧場









●内山牧場

長野県と群馬県の県境の内山峠を越えて僅
かな所に内山牧場がある。ここのコスモスの
数の多いことは半端ではない。ここへくる途
中の内山街道にもコスモスが植えられていて
、秋の観光名所と なっている。





●荒船山(1422m)
荒船山は長野県と群馬県の県境に聳える船
の形 をしたトロイデ型の死火山。
佐久から見て右が船首となり火山で吹き飛び
15 0mの断崖となっている。
分水嶺となっていて、佐久側に降った雨は日
本海 に、群馬側の雨は太平洋に注いでいる。




●佐久市:全国バル−ン競技大会



毎年5月3日〜5日まで「全国バル−ンフェス
ティバル」が開催競技大会が行われ、全国各
地から集まったパイロットたちが飛行技術を
競う。全国で は5箇所で行われる。
競技は風の穏やかな早朝に行われる。
 
南佐久郡






















●佐久穂町






●八千穂高原

南佐久の佐久穂町から諏訪の茅野市に北八
ヶ岳を横断している、通称メルヘン街道が麦
草峠(21 27m)にむかう街道沿いを八千穂高
原と呼んでい る。
付近一帯は白樺林が広がり特に5月のレンゲ
ツツジの紅と林の白は大変美しくカメラマンの
撮影ポ イントとされ大変賑わう。





●花木園

レンゲツツジのほか、ドウダンつつじ、ベニバ
ナイチヤクソウ、スズラン等、高原の花に出
会える。
又小鳥のさえずりも楽しめる自然たっぷりな
場所です。





 
 

●麦草峠

メルヘン街道の最高地点に「麦草ヒュッテ」が
ありここの山小屋では高山植物を栽培されて
おり大変 貴重な高山植物を見せて頂ける(要
協力費)。
八ヶ岳の登山口となりここに車を置き南八ヶ
岳に 縦走するアルピニストも多い。





●白駒池

麦草峠少し手前に村営の白駒池駐車場があ
り苔むした原生林の中を徒歩15分白駒池に
到着。
この池は一周40分で原生林や美しいコケを
見なが ら周ることが出来る。
海抜2000m以上の湖沼では日本一の大き
さを誇っている。11月から結氷するのでスケ
−ト選手 の合宿場所となる。



●白駒池全景

白駒池から少々足を伸ばし約1時間登り「高
見石小屋」に着く。この山小屋の裏にある「
高見石」という大きな岩場をよじ登ると北八
ヶ岳が一望、白駒池が小さく見える。

  ●南牧村





















●野辺山高原

八ヶ岳連峰の東麓に広がる県下最大級の牧
場が 幾つもある牧歌的風景の野辺山高原。
八ヶ岳にしずむ美しい夕日を眺め、夜は満天
の星空を楽しみ、朝は小鳥の声で目覚める。
野辺山高原は写真撮影をしたり、絵を描いた
りするのにも最高のロケーション。
野辺山高原は、ドラマの撮影に使われたり、
広告の表紙に使われたりもしています。
夏は避暑地として冬はアクセスも便利なスキ
ーエリアとして、東京から約2時間名古屋から
約2時間ととっても気軽に行ける高原リゾート
です。

●国立天文台野辺山電波観測所

完成・・・1982年

空気が綺麗なことなど自然条件が観測に適
しており、宇宙から舞い込む微かな電波を捉
え宇宙の神秘を探る我が国最高規模の観測
所。
望遠鏡はレ−ル上を移動。
アンテナ直径・・・45m
アンテナ重量・・・700t
(動く範囲):高さ方向・・・10度〜90度
         :回転方向・・・360度














●世界最大の電波望遠鏡

45mでのミリ波の電波の観測は、大気中の
水蒸気の少ない11月から5月まで行われ、
昼間も観測ができるので、一日中観測をお
こなっています。
もっと長い波長(センチ波)の観測は、水蒸
気の影 響を受けにくいので夏期に観測する。
観測された天体の中でもっとも遠いのは、
BR1202ー0725という銀河(クェーサー)
で、地球から100億光年以上離れています
(我々の銀 河系の直径の10万倍)。


●鉄道最高地点
高原列車で有名なJR小海線があり野辺山駅
は鉄道駅では最高所1345.67mの駅。そし
てここは鉄道の日本最高所1374.906m。
旧の国道141号線と小海線の交差する踏み
切りが最高標高地点です。
鉄道以外で最も標高が高い駅では立山黒部
アルペンルートのトロリーバス室堂駅で245
0m。
日本で一番低い駅は、地上駅ではJRで三重
県の弥富駅で−0.49m、地下駅ではJR青函
トンネル内の吉岡海底駅の−149.5m、地上
から入れる駅では東京の馬喰町駅の−30.5
8m。
●日本最高の露天風呂「本沢温泉」











JR小海線、小海駅から車で50分。さらに八
ヶ岳の硫黄岳に向かって登ること約2時間、
本沢温泉 に到着。
ここで入浴手続きを行いさらに15分、日本
最高 所(2150m)の秘湯中の秘湯「雲上の
湯」に入る 事 が出来る。
この湯は周りに囲いもなく直ぐ上を硫黄岳に
続く登山道があり登山客が「湯加減はどうで
すか」と 挨拶をしながら通る。




 



御代田町

町制施行:昭和21年
町章:「みよた」の3文字を表し図案化
位置:東経138°30’42”
        北緯 36°19’05”  
面積:58.78ku
人口:14,153
(男7,061人、女7,092人)
世帯数:5,064世帯
(平成17年10月1日現在)
町の木:イチイ 町の花:やまゆり 標高:838.15m

 「追分宿」の信号で旧「追分宿」からの中山道が合流し、その先で「史跡・追分の分去され」となり「旧北国街道」と別れていく。
 ●高原の「浅間サンライン」ルート。目近に見る雄大な浅間山の景観と、戸隠連峰,蓼科山,八ヶ岳,野辺山高原までの佐久平の眺望を欲しいままにする。

浅間山の天狗
  むかしから浅間山には天狗がいて、うそを言ったり、他人のものを盗んだりするような心のよくないものが浅間山に登ると、道に迷わされて谷底に落とされたり、石の下にされて首をねじられてしまうと言われていた。
 時によると夜になってから雨を降らせたり、ひちりきを吹いて聞かせることもあったそうだ。
 小さいとき、浅間の麓のこしき平という所から追分の裏の方まで、あまの花を取りに行ったものだが、浅間の上の方を見ると、人の形をした黒い小さいものが、ちょうど草刈りでもしているように動いているのを見て、「天狗だ」といって逃げ帰ったものだ。
 むかしは山へいった人は,よく天狗様が「ズイキョウズイキョウ、カッチンカッチン」という物音をさせたのを聞いたとか、たまには首をひねられたなんぞと言う話があった。
 ●高原とは対照的に神秘的な渓谷美を見せる湯川渓谷沿いのルートがある。渓流釣りで有名な「露切峡」から、やがてひらけるヨーロッパの高原都市のようなエリアから御代田町中心部への道。

露切峡の花嫁
 むかし、面替の南に平根という村があり、そこまで用水を露切峡からトンネルより水を引くことになった。この用水工事中、壁が崩れたりして難工事となり、大勢の人が死んだり、怪我をした。
 工事は進まず、死人や怪我人がふえるばかりなので、川の神のたたりがあると面替の庄屋のだんな様は信じて、祈祷をしてもらったところ、その時の神のお告げは「娘をささげよ。」とのことであった。
 村人は、一昼夜話し合った末、くじ引きにより娘を選ぶことにした。くじを引いたところ、ちょうど庄屋の家に当たってしまった。
 庄屋にとっては一人娘でもあり、家に帰って悲痛の思いに沈んでいた。すると、前々その話を聞いていた娘は、このことをさとり一晩泣きあかした末に、自分の愛馬にまたがり、人々があっけにとられている間に、矢のように突切の淵にとびこんでいった。このことがあってから、用水工事ははかどり完成されたが、今でもその時の娘をのせた白馬の足跡といわれるものが岸の岩に残されている。



小諸

市制施行:昭和29年4月1日
市章:小諸の「小」という文字を図案化
位置:東経138°25’45”
         北緯 36°19’26”
面積:98.66ku
人口:44,816人
 (男22,238人、女22,578人)
世帯数:17,073世帯
(平成16年10月1日)
市の木:梅 市の花:小諸スミレ  

 数多くの縄文・弥生文化の遺跡の発掘により、小諸の黎明が、官道に駅馬、伝馬制が設けられ人馬の往来で集落が発展、形成され、中山道、北国街道、甲州街道の交わる交通の要所として城下町が形成され、数度の領主交代の後、牧野氏1万5千石の領有として、物資の交流が盛んになり、商業都市として栄え、問屋商人の存在により、堅実な商風が評価され県内外において重要な商業の町として発展し、昭和29年に、北佐久郡小諸町、三岡村、南大井村、北大井村、大里村、川辺村の1町5村の合併で市制となり、32年乗瀬地区、34年西小諸地区の編入。上信越自動車道の開通、第3セクタ−しなの鉄道の開業、市内環状道路網の整備により新たな躍進の時をむかえている。

小諸城址懐古園
 小諸駅の西に位置する懐古園は小諸城の城跡。門をくぐると左に武具や古文が陳列されている徴古館があり、正面に料金所があります。入場券、大人600円には、園内にある藤村記念館、小山敬三美術館、郷土博物館、徴古館の入場券も合まれています。動物園、児童遊園地、馬場などがある。水の手展望台は千曲川が望めるスポット。園内の一番奥まったところには島崎藤村詩碑があり、代表作「千曲川旅情のうた」が刻まれています。


小諸城の正門にあたる門。1612(慶長17)
年の建築で、勇壮な桃山様式を備えている。
三の丸の場所に小諸駅が建ったので、この
大手門だけが市街地に残されている。国指
定重要文化財。

小諸駅の西に位置する懐古園は小諸城の城
跡。園内には郷土博物館、小諸市立藤村記
念館、同立小山敬三美術館、動物園などが
ある。水の手展望台は千曲川が望めるスポ
ット。

平成5年に大手門と揃って国指定重要文化
財に指定された歴史ある城門。寄棟造りの
二層の城門になっており、徳川家達公の筆を
写した「懐古園」の大額が掛かっている。

小諸出身画家、小山敬三の代表的作品約4
0点を展示。油彩『紅浅間』『浅間山新雪』な
ど、四季折々の浅間山の風景画が展示され
印象深い移築された住居兼アトリエを併設。

明治26年に生まれた私塾・小諸義塾の歴史
がわかる記念館。教鞭をとった島崎藤村や
塾長の木村熊二の業績を紹介するコーナー
などがあり、豊富な資料とともに解説されて
いる。

島村藤村は、明治32年に恩師木村熊二の
招きにより小諸義塾の教師として小諸を訪れ
た。記念館には藤村の小諸時代を代表する
作品の初版本や当時の愛用品などが展示さ
れている。

かつては北陸街道の重要な宿場町であった
小諸。宿場の中心地であった本町通りには、
蔵造りの家が今も多く残り、商都として栄えた
当時の面影を残している。

民族・歴史・文学民間信仰・自然など、農・道
具、大福帳・大そろばん、古代の遺跡からの
出土品・武具、藤村はじめ文学者の紹介・郷
土民芸品、地質や地形、動植物の解説。

小諸城の城跡である懐古園内に立地する風
情溢れる動物園。園内は、小諸城址の変化
に富んだ自然環境が生かされており、その地
形を活用して、ヤクシカを自然に近い状態で
飼育しているのが特徴。他には、ムーアモン
キーやフンボルトペンギンが人気。

懐古園入場口からロードトレインは無料で運
行され、車椅子でも乗れる昇降機が設置、ツ
インドラゴン・メリーゴーランド・ジェットスター
などの大型遊具のほかに、コーヒーカップ・豆
汽車・子供用電動カートなどがあり、子どもか
ら大人まで家族で楽しむことが出来る。

 


小諸城本丸の奥は馬場で広くなって、
馬場の先は断崖絶壁になっていて展望台がありました。上の写真の右上
の部分がの展望台ですが、断崖の下には蛇行する千曲川を望むことができた。

 

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る
あたたかき光はあれど
野に満つる香りも知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色はつかに青し
旅人の群はいくつか
畑中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

懐古園では、ソメイヨシノ、ヒガンザクラなど約500本の桜が咲き誇る。その中でも貴重なのが、この小諸発祥の「小諸八重ベニシダレ」で、八重の花弁と花の色の濃さが特徴となっている。

 

 



東御

市制施行:平成16年4月1日
市章:「と」をモチーフに豊かな自然、人と
位置:東経138°20’
        北緯 36°21’
面積:112.3ku 人口:32,259人
(男15,823人、女16,436人)
世帯数:11,293世帯
(平成18年9月1日現在)
市の木: 市の花: 海抜:533m

 小県郡東部町と北佐久郡北御牧村の2町村が合併して発足、地理的には
長野県の東部に位置し、北は上信越高原国立公園の浅間連山を背にし、
南は蓼科、八ヶ岳連峰の雄大な山なみ、千曲川と鹿曲川の清流とが織りな
す豊かな歴史風土に恵まれた美しい市。
 海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。北
国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道でした。佐渡で採れた金の輸
送、北陸の諸大名の参勤交代のほか、江戸との交通も頻繁で善光寺への
参詣客も多くありました。
 寛保2年の大洪水によって隣接する田中宿が被害を受け、本陣が海野宿
へ移されてからは、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と、たいへんな賑わいを呈し
ていました。

 江戸時代の寛政年間(1790年頃)に建てられた建物がそのまま資料館
に。旅籠屋造りと明治以降の養蚕農家の特徴を兼ね備えている点で海野宿
特有の建物です。

 



上田

市制施行:
大正8年5月1日
市章:背景の四つ葉のクローバーは、旧4市町村の調和
した統合を、桜の花は元気、花心は真田六文銭をイメージ
位置:位置:東経138°15’
         北緯 36°24’
面積:552.00ku
人口:163,315人
(男79
,573人、女83,742人)
世帯数:61,997世帯
(平成18年8月1日)
市の木: 市の花: 海抜:海抜456m

 信濃国で最初の国府が置かれた地ではないかと考えられている。鎌倉時代に入ると、幕府の信濃守護職、北条氏が塩田に居を構え、三代60年に渡り鎌倉の仏教文化を花咲かせた。
 戦国時代、真田氏は武勇に優れた智将として全国にその名を轟かせ、日本の歴史の要所に影響を与えた。1583年に上田城を築いた真田昌幸は、徳川軍の侵攻を二度にわたって退けた。さらに、その後の大阪冬・夏の陣での真田幸村らの活躍は、今も城下町上田の誇りとして、市民の心に深く刻まれている。
 明治から大正時代にかけては全国有数の蚕種(さんしゅ)の生産地となり、全国の蚕糸業を支える「蚕都」として隆盛を極めた。経済恐慌、激動の昭和を経て、当地域は、長野県東部の中核都市、そして、商業、工業、農業、観光のバランスのとれた都市として着実な発展を遂げてきた。
 現在では、年間100本近い映画やテレビドラマ等の撮影が行われている。これまでに70本余りの名作映画の舞台となっている。

真田十勇士

真田幸村

 悲運の名将・真田幸村の周囲を明るくする真田十勇士の存在は、幸村の人気が創り出した伝説なのかもしれませ
ん。10人全員のプロフィールを。


猿飛佐助(さるとび さすけ)
甲賀流忍者。15歳の時、たまたま猪狩りに来ていた幸村に出会い、以来家来となりました。巻物くわえてドロンって
イメージですね。

霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)
伊賀流忍者。猿飛佐助と出会って忍術比べをし、結果、才蔵が負けてしまいました。これ以後、猿飛佐助と兄弟分に
なり、幸村に紹介されました。ニヒルなクールガイらしいっす。。

三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)
出羽国亀田の城主の子と、由緒正しい生まれですが、18歳の時、落城してしまいます。その後、弟と共に真田昌幸
のもとに身を寄せ、その後、幸村に仕えることとなりました。18貫の鉄棒を易々と振り回していたといいます。

三好伊佐入道(みよし いさにゅうどう)
清海入道の弟で、兄と同じく勇猛だったそうです。十勇士の中で彼だけ辞世の句を残しているので、紹介をば・・。
「落ち行けば 地獄の釜を踏み破りあほう羅刹の 事をなさん」

穴山小助(あなやま こすけ)
武田家家臣の出で、主家滅亡後、幸村に見出され家臣となりました。槍の名人だったそうです。

筧 十蔵(かけい じゅうぞう)
出身は謎に包まれた人です。当時としては珍しく、いつも種子島銃を持っていて、その腕前もたいしたものでした。

海野六郎(かいの ろくろう)
海野家は真田家の本家である滋野三家(海野・禰津・望月)の1つでした。簡単に言うと、親戚ですね。六郎は十勇
士の中の最古参で、幸村にとって頼りになる参謀でした。

望月六郎(もちづき ろくろう)
滋野三家の1つ、望月家の出身。派手な活躍は伝えられておらず、十勇士の中で地味な感じはしますが、幸村の影
武者としていつも行動を共にしていたともいいます。

根津甚八(ねづ じんぱち)
滋野三家の1つ、根津家(禰津家)の出身。海賊に身を投じていたところ、幸村に見出され十勇士の一員になりまし
た。由利鎌之助とは喧嘩友達だったそうな。

由利鎌之助(ゆり かまのすけ)
鈴鹿山中で山賊をしていた所、三好兄弟と力比べをして意気投合。幸村の家臣となりました。根津甚八の喧嘩友
達で、天下無敵の鎖鎌の使い手という触れ込みです。。釜十字槍の名手でもあります。

 本名は、「真田源治郎信繁」といい、なぜ「幸村」になったのか。後世の創作だといわれます。従五位下・左衛門佐。剃髪したのちは好白と号す。真田昌幸の次男。(永禄10年(1567年)〜慶長20年(1615年)5月7日
 旗印(六文銭)は、六道銭をあらわしている。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭のことで、三途の川の渡し賃なのだとか。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味する。



              
上田(2006年3月6日真田町、丸子町、武石村と合併し新上田市となる)

市制施行:大正8年5月1日
市章:花びらをかたどり、中に「上田」の文字 位置:東経138°15’
        北緯 36°24’
面積:176.73ku 人口:123,678人
(男60
,373人、女63,305人)
世帯数:46,809世帯
平成18年8月1日
市の木: 花の木: 海抜:海抜456m
塩尻地区は、映画「けんかえれじい」(鈴木清順監督)、「およう」(関本郁夫監督)のロケ地で、鍛冶町通りでは、
「三たびの海峡」、「宮沢賢治その愛」(神山征二郎監督)のロケ地として旧家が舞台になって、今なお北国街道
の面影を残している柳町。格子造を生かした茶房や江戸時代から400年あまり続いている造酒屋がある。柳町
の通りは江戸時代から明治時代の面影をそのまま残していることから、映画の舞台として数々の名作のロケ地
になっています。「けんかえれじい」(鈴木清順監督)、「青い山脈」(河崎義祐監督)、「君を忘れない」(渡辺孝好
監督)、「姿三四郎」(岡本喜八監督)、「淀川長治物語神戸編サイナラ」(大林宣彦監督)、「珈琲時光」(侯孝賢
監督)ほか。柳町の通りから街道を西へ進むと紺屋町、鎌原、西脇、新町、そして映画「たそがれ清兵衛」(山田
洋次監督)の舞台になった高橋へと続き、高橋下の河川敷では、映画「たそがれ清兵衛」の主人公清兵衛がそ
の優れた剣術の腕を披露することになった決闘場面のロケ地です。

        真田(2006年3月6日上田市、丸子町、武石村と合併し新上田市となる)

町制施行:昭和33年10月
町章:
「サ」と「ナ」の文字をかりがねに図案化
位置:東経138°18’25”
        北緯 36°26’14”
面積:181.90ku
人口:11,453人
(男5,669人、女5,784人
世帯数:,374世帯
平成18年8月1日
町の木:しらかば 町の木:つつじ 標高:680m
町の東北部の菅平高原一帯は上信越高原国立公園となっている。四阿山(あずまやさん)を最高峰として、町の
周囲は、東に烏帽子岳、根子岳、西は鏡台山、太郎山などの連山で囲まれ、この山なみを源として、神川(かん
がわ)、傍陽(そえひ)川、洗馬(せば)川、大洞(おおぼら)川、渋沢川、角間(かくま)川、大沢川と、豊かで清ら
かな水をもたらしています。平坦部は、役場を中心に4km四方範囲と菅平(すがだいら)地域。

          丸子町(2006年3月6日上田市、真田町、武石村と合併し新上田市となる)

町制施行:大正元年
町章:昭和36年10月町制施行50周年記念事業として実施 位置:
面積:105.70ku 人口:24,538人
(男11
,816人、女12,722人)
世帯数:8,209世帯
平成18年8月1日
町の木: 町の木: 標高:530m
古代豪族の中に「丸子氏」という一族があり、その直系の氏族である「丸子部」が、この丸子町の依田川畔の肥よ
くな地に勢力を持ち、根を張っていたものと考えられ、「丸子」という名はそこからつけられたという説があり、読み
方は、「マルコ」とう。昔から上田と松本、諏訪を結ぶ交通の要地で、近年三才山トンネル、新和田トンネルができ
て、東信地方から松本平、諏訪への最短路線の交通の要衝となっている。「生糸の町」から薬用(朝鮮)人参の産
地として知られており、しかも加工生産量は全国一。

         武石村(2006年3月6日上田市、真田町、丸子町と合併し新上田市となる)

村制施行:明治22年 4月 村章: 位置:
面積:87.67ku 人口:4,119人
男1
,981人、2,138人
世帯数:1,325世帯
平成18年8月1日
町の木: 町の木: 標高:
美ヶ原高原への玄関口・武石村は、「ともしび博物館」、「美ヶ原高原美術館」、「武石公園」など、文化・観光資源
に恵まれている。10年以上前から上本入唐沢の山裾に群生する福寿草は、早春(3月末〜4月初旬)、葉に先立
って黄金色の美しい花が咲き誇る。

 



千曲

市制施行:平成15年9月1日
市章:共生と交流の都市実現への願い
位置:東経138°度07’23”
         北緯 36°度31’51”
面積:119.84ku
人口:63,808人
世帯数:21,351世帯
(平成18年8月1日現在)
    海抜359.7m

 棚田は冠着山(かむりきやま1252m)と三峰山(みつみねさん1131m)などを中心とする聖山高原(ひじりやまこうげん)を背に善光寺平を一望する、標高460mから560mに至り、面積約25ha、千数百枚の棚田が現存しており、姨捨の里は名月と棚田で古くから名所として知られ、棚田は我が国で始めて文化財指定を受けている。
 春浅い信州に最初に花を咲かせ楽しませてくれるのがこのあんずの花です。淡いピンクの花は春を待ちこがれていた人々に至上の喜びを与えてくれます。更埴のあんずの里は一目10万本とも云われる。
 温泉の始まりは明治の中頃、その後は善光寺詣りの湯宿とし「精進落としの湯」として栄えて来た。戸倉上山田温泉は千曲川の清流を挟んで東に戸倉温泉、新戸倉温泉、西に上山田温泉とこの地域の3つの温泉を総称している。


 

長野

市制施行:明治30年4月1日
市章:「長」を単純化し、円形に図案化した
位置:東経138°11’40”
         北緯 36°38’55”
面積:738.514ku 人口:383,316人
(男186
,090人、女197,226人)
世帯数:144591世帯
(平成18年1月1日)
市の木:シナノキ 市の花:リンゴの花 海抜:362.49m

 長野市は善光寺を中心に発展した門前町。古戦場で有名な川中島や真田十万石の城下町・松代も今は市の一部となり、人口35万の都市です。真田十万石の城下町、松代。文武学校や旧真田邸、旧横田家住宅など真田家ゆかりの史跡を中心に、今なお多くの武家屋敷や古寺が残り、往時の面影をしのばせている。

 真田邸

 松代藩9代藩主の真田幸教氏が母・貞松院のために建てた住居。松代城で唯一残った建物で、明治維新後は真田家の私邸として使われた。「水心秋月亭」と呼ばれる庭園は見事。
 松代は、1622(元和8)年真田信之が上田から松代藩10万石の領主として移封されてきてから、10代250年間北信濃の文化の先進地として続いてきた城下町です。
真田信之は真田十勇士で有名な真田信繁(幸村)の兄で、関が原の戦いでは父昌幸と弟信繁が豊臣方についたのに対して、徳川方について徳川の時代に生き残りました。


文武学校

 藩士・子弟の学問・武芸を奨励するため、八代藩主・真田幸貫によって発案され、九代藩主・真田幸教によって、嘉永6年(1853)に完成、安政2年(1855)に開校したのが文武学校です。
真田家9代目の幸教が1855(安政2)年に開校した藩士学校。松代藩が家臣の子弟たちに文武両道を教育するのに使われた。現在もいたるところに往時の面影を残している。




 版画、油彩、陶芸、ブロンズ彫刻などさまざまなジャンルで活躍した池田満寿夫の作品を展示。銅版画として世界的な評価を得た「女・動物たち」など、代表作が見られる。
池田満寿夫美術館




長野市地域合併官報告示

総務省告示第912号
 市町村の廃置分合

 地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条第
1項の規定により更級郡大岡村、上水内郡豊野
町、同郡戸隠村及び同郡鬼無里村を廃し、その
区域を長野市に編入する旨、長野県知事から届
出があったので、同条第6項の規定に基づき告
示する。
 上の処分は、平成17年1月1日からその効力
を生ずるものとする。
 平成16年11月18日

総務大臣 麻生 太郎

平成16年5月17日(月)午後4時

大岡村(2005年1月1日に長野市・豊野町・戸隠村・鬼無里村と編入合併し新長野市となる)。

村制:明治22年4月1日
面積:45.86
ku
人口:1
,546人(男751人・女795人)
世帯数:654世帯(平成16年11月1日)

 典型的な内陸型気候で、1年間の気温較差が大きいのが特徴で、日較差も大きく、特に夏が顕著で日中の気温が30度を超える日でも夜間は涼しく凌ぎやすく、冬は、周囲の山々を超えて冷たい気流が吹き込むため、最高気温が氷点下の真冬日になることもしばしば。山地特有の冷涼な気候のため、リンドウなどの高山植物や寒冷な水温を好むイワナが棲息しやすい自然環境。

豊野町(2005年1月1日に長野市・大岡村・戸隠村・鬼無里村と編入合併し新長野市となる)。

町章:「ト」が四つで、中心が「の」
位置:東経138°17’08”・北緯36°42’31”
面積:19.90ku
人口:10265人(男4925人・女5340人)
世帯数:3330世帯(平成16年11月1日)
海抜:332.1m

332.1



戸隠村(2005年1月1日に長野市・大岡村・豊野町・鬼無里村と編入合併し新長野市となる)。

村制:昭和32年8月1日
位置:東経138
°05’30”・北緯36°41’58”
面積:132.76ku
人口:5082人・世帯数:1691世帯(平成14年3月31日)
村の木:白樺・村の花:そば・海抜:910m

 日本神話で有名な天照大神が、天の岩屋(現在の宮崎県高天原)に身を隠したとき、無双の神力を誇る天手力雄命が、その岩戸を投げ飛ばし、岩戸は信州の国の山深く達し、その地が「戸隠」と呼ぶようになったと「古事記」に記されている。 
 「ソバ」は大きく「夏ソバ」と「秋ソバ」の2種類に分かれます。「夏ソバ」と「秋ソバ」は、栽培と収穫の違いだけでなく、味も違い、「そばは75日」といわれる程、種播きから収穫までの期間が非常に短いといわれる。



鬼無里村(2005年1月1日に長野市・大岡村・豊野町・鬼無里村と編入合併し新長野市となる)。

位置:東経138°00’17北緯36°40’39
面積:面積135.64ku  海抜:678.74m
人口:2223人(男1055人・女1168人)・
世帯数:836世帯(平成16年7月1日)
村の木:ブナ・村の花:ミズバショウ
村章:キナサのかしら文字「キ」を図案化、ブナの原生林をあらわす

 
 鬼無里の山里も太古は海の底でした。鬼無里ではおよそ600万年前の地層が一番古く、すでに北アルプスは陸化しており、日影砂岩礫岩層は、この北アルプスから川が運んだ古生層の岩石や火成岩を含んでいます。クルワドウ沢の団塊(ノジュール)とよばれる、丸い礫がこれです。
 昭和61年、奥裾花のハシゴ沢で、ステゴドンゾウの左下顎骨の化石が発見されました。ステゴドンゾウは400万年〜40万年前にインド、東南アジア、アフリカなどに栄えた大型の象で、現在の象と共通の祖先をもちます。
 白鳳時代、天武天皇は遷都を計画し、天皇13年(685)に、三野王(みぬのおう)、小錦下釆女臣筑羅(こにしきしもうねめのおみつくら)らを信濃に遣わした。裾花川畔の高丘に使者館を設けて東京(ひがしきょう)と定め、加茂神社(写真左)を勧請し、馬繋ぎ場所に三の字を刻んだ大石を置いたという伝承がある。
 戦国時代小川城の家老大日方金吾直経(おびなたきんごなおつね)の城(鬼無里城)があった。江戸時代は、松代藩真田10万石の領地でした。真田信之が上田から松代に移封された際の知行日録に、鬼無里村高1046石3斗7升4合、日影村555石1斗9升と記されてありますから、当時すでに稲作が広範囲に行なわれていた。天候に大きく左右された江戸時代の稲作りは大変なことでした。そこで人々は蕎麦(そば)、粟、稗を栽培して旱魃(かんばつ)や冷害に備え、また木炭、麻糸、鬼無里紙の副業に励み、麻は文禄年間(安土桃山時代)頃から栽培され、善光寺町・松代城下・江戸へも売られて、明和年間(1765)吉郎右衛門が江戸で麻糸を加工して畳糸にする技法を覚えて帰り、明治初年、寒冷積雪地の不利を逆に寒晒(かんざら)し、畳糸は氷糸(こおりいと)の商標で高値売買されたので、95%の農家が麻を栽培し麻全生産量の半分が、畳糸に加工されて出荷された。
 日本有数のミズバショウ群生地である「奥裾花渓谷」に代表される鬼無里村の素晴らしい大自然。




須坂

市制施行:昭和29年4月1日
市章:亀の甲を「須坂」の「ス」の文字で表し
位置:東経138°18’35”
        北緯 36°38’52”
面積:149.84km²  人口:53,644人
(男26,067人、女27,577人)
世帯数18,402世帯
市の木:クマスギ 市の花:レンゲツツジ  

 明治から昭和にかけて製糸の町として栄え、 近年は電子・機械工業と風光明媚な観光地、全国有数のリンゴ・巨峰の産地と して躍進を続け、東南部には峰の原高原、米子大瀑布、五味池破風高原などがあり豊かな 自然に恵まれている。
豪商の館(田中本家博物館)

 江戸時代中期に創業し、須坂藩の御用達を務めた北信随一の豪商「田中本家」。100m四方を土蔵が取り囲む豪壮な屋敷の一部を展示館として改装し、家伝の書画・陶器・漆器・衣装・玩具など所蔵品を展示している。
蜂の原高原
 根子岳のなだらかな裾野に広がる標高1500mの峰の原高原は、真夏でも平均気温が19℃のさわやかな高原で、テニス・ゴルフ、そして冬のスキーとアクティブに楽しみ、高原に立ち並ぶ個性的でお洒落なペンションは自然の風を感じてのんびり過ごすアットホームな雰囲気。
米子大瀑布
 根子岳と四阿山をそれぞれの源流に、静寂な谷にどう轟音をたてて流れ落ちる権現滝(落差75m)と不動滝(落差85m)。対岸から眺める二すじの滝の姿は日本の滝100選に数えられています。不動滝は古くから修験者の修行の場として知られ、夏には数多い行者の姿が見られる。
五味池破風高原
 群馬県との境、破風岳の西になだらかに広がる破風高原は、初夏には100万株ともいわれるレンゲツツジの大群落がいっせいに花をつけ、一帯に燃えるような紅色に染め、また、北信五岳、北アルプスをバックに広がる善光寺平の眺望は天下の絶景。



高山村

村制施行:明治22年4月1日
村章:
位置:東経138°21’48”
        北緯  36°40’42”
面積:64.16km²
人口:7,598人
(男3,665人、女3,933人)
世帯数:2,283世帯
村の木:イチイ 村の花:シャクナゲ 海抜:555m

 善光寺平の東辺に広がる山里である。村には約20本以上のしだれ桜があり、。「水中の桜」「坪井の桜」「黒部の桜」「赤和観音の桜」「中塩の桜」を高山五大桜と呼ばれている。中でも「坪井の桜」は幹周囲8mもあり、日本彼岸桜番付で西の小結に選ばれている。
 高山村の東側一帯は、上信越高原国立公園(一部特別地域あり)のエリアにあり、自然の風景を保護するとともに、自然公園法に基づき管理され、年間を通して笠岳や松川渓谷をストレス解消のためゆっくりトレッキングを楽しむ観光客で賑わっている。貴重な高山植物が群生し、動物を自己満足のために採取、捕獲して動植物の生態系をも崩壊させ、一部心ない人々のゴミの置き去り、ポイ捨てで、環境を破壊に至れ占める。未来に向かってこの大自然の恵みがいつまでも続くようみんなで貴重な資源財産の保護に心がけよう。



小布施町

町制施行:昭和29年2月
町章:
位置:東経138°19’
          北緯  36°41’
面積:19.07ku
人口:11,425人
(男5437人、女5988人
世帯数:3,433世帯
町の木:クリ 町の木:リンゴ 海抜:353m


 長野盆地(通称善光寺平)の北東に位置しています。全地域は松川扇状地末端に広がり、北西に緩く傾斜しています。東部は高山村に、西部は千曲川を隔て長野市・豊野町に、南部は松川を隔て須坂市に、北部は篠井川を隔て中野市に隣接
 約1万年前の旧石器時代、雁田山麓からとされています。縄文中期末頃には集落が形成され、稲作が行われるなど確かな生活の跡として残され、今日まで連綿と受け継がれ
 江戸時代後期に入り、千曲川の舟運が盛んになるとともに、越後小千谷・十日町から飯山・中野を経て上州に至る大笹街道と、直江津・高田(上越市)から柏原・豊野を経て山田街道へと抜ける道は物産交易に大いに役立ち、豪農・豪商たちは、葛飾北斎や小林一茶ら多数の文人墨客を招き、文化の摂取に励み、
 豪農・豪商たちは、葛飾北斎や小林一茶ら多数の文人墨客を招き、文化の摂取に励み、
明治22年小布施村、福原村、大島村、山王島村、飯田村、北岡村、押羽村が合併し、小布施村となる。昭和29年2月に小布施村が町制を施行し、11月1日都住村と合併して現在の小布施町となりました。
 東京都墨田区と1996年(平成8年)5月1日 - 提携。墨田区(すみだく)は、東京都の特別区のひとつ。2006年に区内の押上・業平橋地区に「新東京タワー(仮称)」の建築が正式決定した。2011年に、建造物では世界一となる高さ610mのタワーが完成予定。観光と防災都市のシンボルにし、世界一の観光都市を目指すという、今後一躍注目される区になる。



中野

市制施行:昭和29年7月1日
市章:中野の「中」と「の」を組み合わせ、
周囲の山々を図案化
位置:東経138°22′
    北緯36°44′
面積:112.06km²
人口:46,500人
(男22,478人、女24,022人
世帯数:14,700世帯
平成18年8月1日
市の木: 市の花:  


 江戸時代には幕府直轄の天領として陣屋が置かれ、谷街道と草津街道が結節する交通の要衝・商都として栄えた。また明治政府時代には中野県庁が一時期置かれ、東北信一帯を統括していた。志賀高原等を後背地に抱え豊かな自然環境を有する『北信州』に位置している。斑尾山、高社山など象徴的な山々を背景として、千曲川、夜間瀬川などが形成した河岸段丘や扇状地、穏やかな傾斜地に集落が発達し、 産業は農業がさかんで、リンゴやブドウの栽培では全国でも有数の品質と生産量を誇っている。北は飯山市、木島平村、東は山ノ内町、南は長野市、小布施町、高山村、西は飯綱町に隣接している。



            
豊田村(県下水内郡豊田村は平成17年4月1日に中野市と合併した)

村制施行:昭和31年              村章:四方にトを配し豊と田の字を外の囲い 位置:東経138°20′
        北緯 36°46′
面積:34.74km²
人口: 5,086人
(男2,454人、女2,632人)
世帯数:1,436世帯
(平成16年4月1日)
村の木:もみじ 村の花:桜  


 1956年、豊井村の“豊”と永田村の“田”をあわせて豊田村となった。 斑尾山(標高1382m)を背景として起伏が激しく、複雑な地形に、標高320mから760mの東南斜面に大小の集落が散在している。江戸時代本田家の領地であったことから、本田家ゆかりの品が多く、本小孔色色威童具足(ほんこざねいろいろおどしわらべぐそく)は、徳川家康が最初に着用した鎧で、本田家が譲り受けた大変貴重なものです。
 縄文の昔から人が暮らし、時代ごとに貴重な遺産を残している。上今井の南大原遺跡、荒山の風呂屋遺跡からは、縄文前期から中期・縄文中期初頭(5000年から4000年前)にかけての土器などが多数発掘され、村内に集落が形成されていたことがわかる。




山ノ内町

町制施行:昭和30年4月1日 町章:本町を象徴し未来に向けたまちづ
くりを連想するような『シンボルマーク』
位置:東経
面積:265.93km²
人口:15,180人
(男7,333人、7,847人)
世帯数:5,012世帯
平成18年9月1日
町の木:つが 町の花:りんご 町の鳥:うぐいす

 最古の湯といわれるのが渋温泉。1303年、京都東山の臨済宗東福寺の虎関国師(こかんこくし)、練国禅師(れんこくぜんし)がこの地を訪れ、草庵を構えて人々に温泉の効能を教えたことに始まり、1556年、名僧節香徳忠(せっこうとくちゅう)により、曹洞宗として諸堂が再興され、このころ権勢を誇っていた武田信玄も深く帰依、川中島の合戦で傷ついた将兵をここ渋の湯で癒し、江戸時代には、真田家の武将たちの湯治場として、また湯女が集い、色香漂う湯処として多いににぎわい、湯田中渋温泉郷は新湯田中、湯田中、星川、安代、渋、上林(かんばやし)、地獄谷、穂波、角間の9つの温泉からなり、古くは平穏温泉郷と呼ばれていました。
 中野市に隣接し、北は木島平村および下水内郡栄村に接しています。また、南に笠ケ岳、三沢山を境として上高井郡高山村に接し、東は志賀高原をはさんで群馬県と県境をなし、志賀高原や北志賀高原と、温泉地として知られる湯量豊富な湯田中渋温泉郷を持ち、山林原野が93%(うち7割余が志賀高原)を占め、集落は河岸段丘や扇状地状の緩やかな傾斜地に発達し、明治22年の市町村制の施行とともに平穏・夜間瀬・穂波の三つの村によって構成されるようになり、昭和29年4月平穏村が、平穏町となり、昭和30年4月、1町2村が合併して今日の山ノ内町となって現在に至っている。