湯田中温泉
(第2日目)








 朝は、明るくなると部屋の中がザワザワと騒がしくなり目を覚ました。昨日は二次会の後部屋に戻り入浴し、灯りが消えたままの部屋の布団に入った。、別の布団の中に人がいる気配はあったがバタンキューと朝までグッスリ寝込んでしまったらしい。何人もが呼びに来たらしいが目を覚ます様子はなかったと聞かされた。
 今朝は早速朝風呂に出かけ露天風呂に飛び込み寝た姿勢で暖まれる浴槽でジックリ温まり外の景色を眺めて再度温まって脱衣場に戻ったが、中々汗が引かなかったので浴衣を引っ掛けて部屋に戻った。部屋に来ても汗は引かずその内にお腹がシクシクして来たので、トイレに入っても脂汗が吹き出てきたので、時々起こす胃けいれんと思い再び布団の中に飛び込んで静かに横になっていると、皆が心配したので持病だから1時間もすれば元通りになるから心配ないといい、バイキングの食事場所まで行って、お粥を1杯だけ食べて部屋に戻り横になっていると幹事がやって来て電車で帰りますかというので、大丈夫皆と一緒に今日も楽しい旅行をするからご心配なくといって、ロビーに行きお土産を買ってバスに乗り込んだ。しかし、記念写真を撮るということでホテルの玄関先へ戻った。
 バスは予定していた時間より10分早く出るといっていたが、ホテルの前でお女将を中心に記念写真を撮って再びバスに乗り込んだ。早くなった理由は仕込んできたアルコールがなくなってしまったので、街中のスーパーで買い込むためだった。
 ホテルは夜間瀬川の土手添いにあったので、ホテルを出ると左に走り栄橋から左に曲がって穂波の温泉街へは曲がりにくいということで橋を渡ることにした。橋を渡っているとホテル前で見送ってくれた女将や従業員がまだ手を振っているではないか。この先も川の反対側を走るというのだがホテルの真前に来ても通り過ごしても一つ上流の星川橋を渡って見えなくなるまでその姿はあった。この間10分以上だったがこんな光景に出っくわしたのは初めてだったの恐縮の極みだった。橋を渡りオリンピック道路を跨ぎ近くの酒店でビールや地酒を買い求め、切り返してオリンピック道路に入り一路志賀高原を目指した。夜間瀬川も渋温泉の方へ流れるのが横湯川で、オリンピック道路から国道292号線側が角間川だ。角間、安代、渋、上林、と対岸に見えたがオリンピック道路もここで温泉街を抜けてきた県道と一緒になり、一つ山向こうの地獄谷温泉で湯田中温泉郷とはお別れで、山の左中腹には志賀高原ロマン美術館も見えた。いよいよ山道特有のカーブも激しくなり左右の紅葉もこの辺が最後になりそうな辺りにきてループ状になった坂か道を上がると一気に気温も冷えてきてバスの暖房も一段とヒートアップさせた。この辺りから700、800mも行くとヘヤピンカーブが、ほぼ高さこそ違うが元に戻ったように谷を巻くようにやってきたが、今度は反対に曲がり眺めは一転した。先程のヘヤピンカーブの付根には発電所もあった。
 かなり曲がりくねるがそれでも直線もあって快適に過ごしていたが、大きなヘヤピンカーブを3回ばかり繰り返すと水無池の下のほうを通過していた。ここから2km余りは直線に近い見通しのいい道路だったが、V字型にカーブすると右に丸池、左に琵琶池があるサンバレーのスキー場がある。ここもご多分に漏れず志賀高原全体のスキー場も一時の賑わいは消えて廃れ始めているという話も聞き、全盛前から全盛時には長野電鉄と西武の意気込みや道路関係話と添乗員の自身の学生時代の雪の行軍話と尽きないガイドを聞きながらスキーのメッカを通り過ぎようとしていた。仲間の中にも若い頃遊びに来た話なども交えながら昔の賑わいが嘘のような実感話を聞かされたが、私には寒いところが苦手なので、せいぜい後楽園のスケートリンクや池袋のスケートセンターとシーズンだけ開かれた晴海のスケートセンターへ行った位でウインタースポーツにはトンと縁がなかった。夏山登山は一人前に話に加わることは出来る。南北のアルプスも八ヶ岳も登ったが、未だに富士山だけは登っていないが、これからも登る事はないだろう。車で5合目まで今でもチョクチョク上るが、ここから眺めたり東京から見るだけの山もいいものだと負け惜しみに聞こえるかもしれないがそう思っている。横道にそれたが、スキー場の幾つもあるリフトを眺めながら、これまでの方向から一気に90度方向転換して南に向かった。
 はすの池、小池、長池などと池の名前も教わったが記憶が薄れて思い出せない。所々で白い蒸気も上がっていたが、この中には温泉として新しく開発されたものもあるそうなのでその内に何とか温泉郷などと名乗りを上げるかもしれない。この辺の道路は西武が参入した頃に長野電鉄との摩擦で長野側からの道路使用がママならなくて、やむなく群馬県側の草津から志賀高原のスキー場のバスの乗り入れで開発されたとも聞いたが事実はさて?。今は一般国道292号線・志賀草津道路といわれている。横手山の硯川のパーキングまでは極端なカーブはほとんどなく急勾配ではあっても見晴らしのいい道路だった。流石にあと1週間もすると通行止めになるといわれているので立ち木は落葉し枝だけが雪の降ってくるのを待っているような環境だが、バスを出ると身体もセガレも縮み上がってしまうほど冷たい風が笠が岳の方から吹き寄せていたが記念写真を取ったりしてトイレ休憩をすると早々に走り出した。ここにはエスカレーターで横手山山頂まで登れるが、時間もなく諦めたが、焼きたての上手いパンを売る売店もあるそうだ。冬のスキーシーズンになると道路も立ち木も雪の下になり格好にゲレンデに変わるそうだと、いわれるが見たことがないので自分でも俄かには信じられない。
 ここを出ると直ぐに長野県と群馬県の県境になるが、その間には谷側は明かりが入るトンネルがあったりして、横手山を巻くように道は曲りくねって造られていたが交通量は多かった。そして現れた渋峠のホテルには長野側の壁には濃い茶色が塗られ、群馬側にはチョット薄めの茶色が塗り分けられていた。
 峠を過ぎて見晴らしが一層よくなると白根山がくっきり見えてきたそしてバスの中にも、やや硫黄臭さが漂い始めると噴煙のように見える蒸気が発生源であたりの木も枯れぼっ杭で、たまたま風下だったらしく噴煙はこちらの道路側にたなびいていた。かなりの間こんな状態が続いたが回り込むようにして、山田峠、万座温泉の分岐点までやって来ると硫黄の匂いも感じなくなり、
白根レストハウスまでやって来た。
 今年の5月には女房と簡保の団体旅行で関越道の沼田から入って草津温泉の湯畑を見学してこの白根山を経由して万座温泉ホテルに一泊して浅間や佐久、小諸の懐古園などを巡る旅行で来ていたので、ここから先は記憶も定かであった。
 ここで1時間の休憩と見学を兼ねてバスから降りた。風は5月の時よりも冷たかった。その時は湯釜まで雪に蔽われていて、登山道はアイスバーンになっていて滑りやすく手摺や応急的に取付けられたロープをつかんで登ったりしたが、今回は極々普通の道を登り下りするだけのコンクリート張りの通路を一歩一歩踏みしめて湯釜まで行ったが、晴れていた空もガスが湧き上がってきてあっという間に視界になったが、その後も激しく変化して、湯釜もジックリとは見られなかったし、水の色も白かった。下山してレストハウスや展示館を覗いてフラフラしながら全員が時間前にバスに戻ったので時間はまだあったがバスは発車した。山の北側はよく晴れていて見晴らしがよかったが一転してこちら側はガスがかかり期待していた景色は眺められなく、高校生が大勢死んだことで名が知れている振子沢まで下りてきた。なるほど硫黄の臭いはきつかった。この上をスキー用のリフトは今でも通って入るが雪はこの部分は積もらないとも聞いた。ドンドン下の方に下りてきたが左右に止まっているリフトが見えたが、この辺までは確りした記憶があるが、殺生河原、草津市内から昼食を食べた浅間酒造ドライブインまでは白河夜船で何を聞かれても答えられないほど気持ちよく眠っていた。







草津白根山
(群馬県・2171m・北緯36度37分22秒・東経138度31分55秒・本白根山)

 頂部には北東から南西に並ぶ水釜、湯釜、涸釜(かれがま)の3火口湖がある。有史後の噴火は1902年の弓池付近までを含む山頂火口周辺で起き、近年の噴火活動はすべて水蒸気爆発である。
白根火山ロープウェイ

 殺生河原と逢の峰を結ぶを結ぶ高速ロープウェイ。全長2.4km、6人乗りのゴンドラは 標高1,500mの山麓駅から約8分、いっきに標高2,000mの山頂へと進む。 眼下に白根一帯の雄大なパノラマが開け、草津の温泉街も箱庭のようだ。

殺生河原>

 死溶岩ゴロゴロ、岩の間からはところどころ白煙が上がり、不気味な雰囲気をかもし出す。あたりは鼻を突く強烈な匂いが立ち込める。ここは、白根火山の旧火口の一つ。絶えず噴出する有毒ガスで 小鳥や小動物が死んでしまうので”殺生”と名づけられた。

弓池

 明治35(1902)年の噴火でできた直径130m、周囲約800mの火口湖。 水質は、火山独特の強い酸性なので、池の中に植物は見られない。一帯は湿原植物や高山植物の宝庫。





 

 

 ここ浅間酒造のドライブインは全国のドライブイン日本一に推奨されていると聞いた。草津にあるホテル桜井の系列店だとも聞いた。肝心な昼食は春来た時には鍋にうどんだったが、今回は鍋にご飯だった。いずれにしてもこんなものかと思ったが酒だけは注文してドンと飲んでいだ。3階だったので上り下りはエスカレーターを使っていたようだが、いくらかでも糖尿のために運動のつもりで一人階段を使って歩いた。売店を覗くと試飲も出来たが、朝から自重して一滴も飲まなかった。外の駐車場の方に出ると菊に花の品評会で入選した花が見事に咲き乱れていたが暫し見とれて写真まで撮ってきた。昼食の後は附近を歩くのだが今回は春に来た所なので時間まで寒かったので店内をウロウロしてバスに戻った。バスも時間には出発して、292号線も何時しか145号線に変わっていたが、完成間近の橋は見える辺りで左折して白砂川と万座川が300mほど上流で合流して吾妻川になった橋を渡ってJRの長野原草津口駅前の三叉路に出てきた。駅前から吾妻川散策行楽客がゾロゾロと車道を歩いて紅葉見物していたが車も負けないほど走っていて危険極まりない。
 このような光景は、温泉宿のある川原湯温泉駅駅附近も家族連れの子供も落葉を踏みしめてはしゃぎ回ってもいたが、こんな光景も八ッ場ダムが完成すると湖底になってしまうので束の間の景色になってしまうかも知れないので添乗員も一度思い出に歩いて見ては如何でしょうかといわれたが、温泉に浸かっている方のいい私にはその気になれなかったが、紅葉はこの辺りが盛りで中々のものだった。
 市町村合併で、聞きなれた町の名前も変わっていて、名前が重なっていたりと、暫くは新市町村名を覚えるのに一苦労することだろう。この川原湯温泉も右側の山の中段に50m以上の高い所に移転するのでその工事も始まっているとも聞いたが、一般住宅も数あるので集団移転となり、国道の工事も進んでいて山が所々削られて剥き出しになってもいる。道路横の長野原線は、こちら側の同じような高さの所で工事中である。川原湯温泉駅の手前で道路も鉄道も川を渡って反対側に来るが、直ぐにまた両者とも川を渡って並行して、北上するが吾妻渓谷の一番の人気スポットがあるこの辺りは道路脇に小さな駐車場もあって賑わいを見せていた。松上、松中、松下と地名があったが松中という辺りで道路は90度近く右にカーブした。鉄道も道路も吾妻川も仲良くこの狭い谷あいを並行していた。岩島駅前を通り矢倉駅前辺りまでは吾妻川は遠ざかり見えなかった。郷原地区では再び並行していたので渓谷は覗けないが所々では流れも見えた。右側はるか前方の山並みが榛名山らしいが、この辺りから榛名湖へ出て遊覧したりして伊香保温泉に下って、更に下り渋川から関越道で帰ったりとコースは幾通りもある。郷原地区を過ぎると道路は左に大きくカーブして北に向った。右に左にと緩やかにカーブしながらの道路状況だったがバイパスを行くと長野原線を跨ぎ吾妻川の川幅は広さをまして流れも緩やかに感じたが、川とは勧め進むほど遠ざかっていった。
 ヤット東吾妻町へやって来て、群馬原町駅前を通過し、四万川を渡り道路も鉄道も吾妻川も緩やかの大きく右にカーブ中之条の町へ入ってきた。この町出身で7回忌を迎える友人がゴルフ好きでよく誘われたがゴルフベタの私はその度、次の機会にといって断り続けて、とうとう一度も来ずじまいで人生の別れをしてしまった苦い思い出をふと思い出している。また群馬県のなかでもこの辺りは温泉とゴルフ場はとてもたくさんあり全国的にもよく知られている。温泉というとこの奥の四万温泉を吾嬬旅行会の幹事長をしている折、先の友人から紹介もされていたが、旅行会もこの近辺にはよく来ていたので、出来るだけ色々な所へという趣旨のもとで念願叶わぬままになっている。
 145号線を走ってきたのだが、この街で145号線と353号線の両方の表示を見たが名久田川を越すと完全に353号線だけになっていた。窓から流れ景色をぼやっと川原や畑、そして遠い山を見ながら、枯れ野になった一面を見ていると今年も残り少なくなったなあと感傷に耽っていると、トイレ休憩はどうしますという添乗員お声に、思わずパスといってしまったが、昼食を食べて満腹から昼寝を貪っている最中だったこともあって、誰しも止める合図もなくそのまま走り続けたが、最初から休憩予定の岩井堂だった。
 小野上温泉前を通過すると線路の下を通過すると川はグット近づいた。しかし大きくな蛇行で道路も川も鉄道も同じように繰り返し小野上駅前を過ぎた辺りから川の流れも見え楽しんでいると鉄道を跨ぎ小野上の町を通り過ぎ、鉄道はトンネルになったが道路にはなかった。大分忘れた頃にガードを潜ったが、先程トンネルで消えた線路だった。川を挟んで向こう側が鉄道でこちら側が道路と初めて別れ別れに走っていた。そして上越新幹線の長い橋が見え下を通り過ぎ20分も走ると353号線は旧道とバイパスに分かれたが、バイパスを行き吹屋の交差点で右折して右側にある道の駅子持「白井宿ふるさと物産館」へ入りトイレ休憩をした。お土産屋や食事処もあったが裏側には白井宿という観光スポットもある。







白井宿

 寛永11年(1634)の名寄帳によると、西町・東町と大ざっぱに区画され、その後新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と整備されている。南北路の道幅は、北端で8.7メートル、南端で8.3メートル、中央の最高幅員は20.15メートル。真ん中に悪水を処理した溝があり、町の長さは945メートルであった。
町の地割りは南北の主要道を挟んで,道路に直角に短冊形に設定されていて、東側は長く、西側は城郭の役目をした段丘に制約されて短い。地割りは3間幅から最高36間幅まであり、5間幅・6間幅・7間幅が最も多い。
利根川の河岸段丘にある為、地下水は低く飲料水の確保には苦労を極めた。
元禄13年(1700)の村明細帳では、火山灰土で水田に向いてないため全て畑であった。同年の家数は150・人数749。安政6年(1859)横浜開港以後は繭・生糸の生産が活発になり、活発に取引が行われた。
前述のように白井は宿場町でないのに、白井宿と呼ばれている。寛永元年(1624)の廃城後は城下町から市場町になったのだが、町並の形態は宿場町そのもので、街道の真ん中に宿場町特有の用水路まであったためだろうか。








 道の駅子持を出ると、道路は17号線のバイパスで真直ぐ渋川へ向っている。上宿・中宿・下宿と通り過ぎるとやがて、吾妻川になり吾妻新橋を渡ると17号線と合流して、渋川の市内へ入る。信号を2つ行くとJR上越線のガードとなり、続いて下郷の交差点があるが交差する353号線を伝って左に行くと赤城自然公園に行ける。
 交差点を過ぎると間もなく信号が見えるが、支流の平沢川に架かる平沢橋を渡ると右に渋川総合病院があり、其処から初めての大崎交差点の信号を右に曲がると200mほどでJR渋川駅がある。左側には化学工場(電気化学や関東電気化学)が渋川伊香保インターまで続いている。右側からは2本の道路が合流するが、その先はインターで今回は此処から入線した。高速道路に上がると一段見晴らしは良く左後ろには赤城山麓のなだらかな稜線が見え、左先には前橋市のビルが見え、間もなく上越線を跨ぎ、左右には所々に大きな建物も見えるが、多分工場や学校だろうと思う。この辺りは車も疎らで制限スピード一杯でどの車線も走れる。やがて、吉岡町へやって来たインターは駒寄でパーキングも兼ねていた。この辺りは田園地帯で、時折高速脇の畑には鉄のカゴに入ったコンニャク芋が野積みされ、出荷を待っているのかそれとも来年もう一年植えられるために掘り起こされたものなのかは定かでない。車は行け行けドンドンで走り続け、町の建物が並び始めると前橋の西の外れの前橋のインターで、国道17号線の真上だった。直ぐに上越線を跨ぎ、町並みが益々ゴチャゴチャとしてくると高崎のインターでその先2.5kmも行くと高崎JCTで僅かながら右に溝を描いて烏川に差しかかり烏川橋を過ぎやがて国道17号線、JR高崎線を跨ぐと藤岡JCTで今回の旅行では上信越自動車道で長野市、そして湯田中温泉、志賀高原、草津白根山、そして渋川伊香保インターを回って山岳コースを楽しで来たがこれからは関東平野の広さと夕日を楽しみながらと思っているが、どの程度の渋滞に巻き込まれるかはわからないが連休の2日間は今のところ快適である。
 何となく左に講を描く感じで進むと上里サービスエリヤだったが、飲み足らなかったのかトイレ休憩の話が出たが希望するものもなく通過することにした。側壁に植えられた木も育って所々しか周辺は窺(うかが)えない左右であったが、いきなりではなかったが時々渋滞したりしても何とか直ぐに走り出しを繰り返していたが、初めての停車をした。そして本庄児玉も過ぎ所々に建物は見えたが、殆んど畑や田んぼしかない中で、寄居PA3km、嵐山PA17kmと表示板がある辺りからは止まったり走ったりを繰り返して寄居PAを通り過ぎ、やがて花園ICまで何とか来たが、トイレ休憩の要望があり、何とか嵐山PAまで我慢して20分休み、後は走れるだけはして希望があれば何時でも止めるということで走り出したが、渋滞はサービスエリヤやインター近くであったが嵐山小川を過ぎると月輪で東武東上線を跨ぎ、国道254号線を跨ぐと東松山ICで一般道が側道のように走り、幾都川に架かる唐子橋から更にこの先、高坂SAまで続いていた。この辺りから何本かの生活道路が高速の上を通過していた。鶴ヶ島ICは、結構出入りの車が多かった。鶴ヶ島JCTを過ぎるとJR川越線、そしてわが町八広まで滔滔(とうとう)と流れる荒川の支流入間川があり、そして国道16号線の上の川越IC、すぐさま西武新宿線の南大塚附近を通り、道路際には家並みが見えるが、暫くは田畑が多い。家並みが多くなり出すと三芳PA、PAを出ると再び田園風景だが、この辺りに来ると秩父の山並みに沈む夕日で空は夕映えになり素晴らしかった。国道463号線と接触しているのが所沢IC、此処から先関越道は堀下げられた道路で全部一般道は上を通過している。おまけに道路を被い被せるようにネットがかぶせてある部分もあったり、大泉IC近くまでそういう地形になっている。大泉JCTと渋滞や停止は遭っても大した時間オーバーにもならず予定通りで東京外環自動車道へ入った。
 外環は12ヶ所も立体交差部分がトンネル方式で上を道路や和光ICや東武東上線が走り和光北ICとなり、此処から内回り外回りに254号線という側道が付くが荒川を渡る幸魂大橋では国道298号線になっていた。左にヤクルト球団グランド右に水処理場、そして、右首都高速5号線と交差する美女木JCT、左首都高速埼玉大宮線で、2kmも行くと浦和南ICがあり、大宮駅近くまで行っている。両側外壁が被い被さり天井が片側車線分ぐらい開いている。また外壁にはプラスチックの素通し嵌めてあって回りの景色や様子が見られる。また、上を東北新幹線と埼京線が見える。国道17号線、JR東北線、産業道路と続き、西川口IC、新芝川を越し、第二産業道路、川口中央IC、そして、岩槻街道の上を走る首都高速川口線の川口JCTになる。
 此処から川口線に入ったが、合流部ではスピードも落ちたが、スムーズに首都高速を走り、新井宿IC、隣のPAでトイレ休憩し、15分後には出発し安行IC、新郷IC、足立入谷IC、加賀IC、東領家出口、鹿浜の上り下りの分かれたIC、そして、これまた同じような造りの江北ICの出口から一般道へ出た。この先小菅JCTの渋滞を避ける為に
此処から出て港北橋を渡り荒川右岸を走って四つ木橋まで行くのが渋滞した時の抜け道。だが、今日はそのまま高速の下の道を走って、先程のICと同じ造りの千住新橋IC、小菅JCTと荒川左岸の高速下を走り綾瀬川を渡り右折して、小菅入口を通り抜け堀切JCT、京成本線ガード下、堀切橋下を通り首都高速環状線の一般道を四つ木橋、新四つ木橋下、京成押上線下をくぐり木根川橋を渡って八広に帰り、その足で夕食を明治通りに面したデニーズで一杯飲みながら食事をして解散した。