耶馬渓







九酔渓

 玖珠川流域の両岸約2キロにわたって断崖絶壁
が直立にそそり立つ「九酔渓」。ヘアピンカーブの
連続するこの渓谷は、別名「十三曲がり」と呼ば
れる新緑と紅葉の名所。モミやツガ、カツラなどの
原生林は四季折々に様々な姿を見せてくれます。
とりわけ紅葉シーズンには多くの観光客が訪れ、
渓谷を見下ろす峠の展望台からの眺望は、渓谷
とマッチして格別な趣があります。

 九重町豊後中村から飯田高原に通じる県道40
号線(飯田高原中村線)沿いにある九酔渓。ここ
は筋湯温泉方面から流れる千歳川と筌の口温泉
方面から流れる鳴子川が出会うところにある渓
谷です。
 
 九重町の九酔渓。十三曲がりの坂の途中の桂茶屋に立ち寄ると、この茶屋の名物は、狐や狸に扮し
た店員。
【所在地】九重町田野、【交通】JR豊後中村駅から車20分
その昔、身の丈6mの天狗かこの
辺り一帯を荒らしていました。
弘法大師が通りかかり、この滝に
天狗を閉じ込めてしまいました。

人々の人々の喜ぶ事をすれば
元の姿に戻すという弘法大師の
言いつけ通り、岩から出してほし
い一心で、天狗は今も願いを叶
い続けております。

 この辺りの村では、いつの頃
からか天狗様と、大事にされる
ようになりました。

 滝に向かって左手の中段辺り
の岩が、光線の当たる角度によって天狗に見えることから名付けら
れた。桂茶屋のすぐ隣にある。








深耶馬渓(一目八景)

 耶馬溪(やばけい)は大分県を代表とする景勝地であり、山国川の本流、支流の両岸は荒々しい岩肌がせまり秋の紅葉の季節には特に美しい景観を見せてくれる。菊池寛の「恩讐の彼方に」で有名な青の洞門を中心とした観光地の下流と上流に耶馬溪3橋(耶馬溪橋、羅漢寺橋、馬溪橋)と言われる均整のとれた橋が3基ある。また、奥耶馬溪の猿飛千壷峡(さるとびせんこきょう)にある猿飛甌穴群下流約300mには昭和3年にできた石造りの念仏橋がある。
 

耶馬渓一番の景勝地である一目八景があるところである。一目八景とは海望嶺、仙人岩、嘯猿山、夫
婦岩、郡猿山、烏帽子岩、雄鹿長尾嶺、鷲の巣山の8つの景色を一目で見ることができるので「一目
八景」と呼ばれている。
山国川の上流、本、羅漢寺、深、裏、奥、東、羽高、津民、南、椎屋の渓谷を耶馬十渓という。無数の奇
峰と渓谷が織り成す景観は天下一品である。頼山陽が「耶馬の渓山天下になし」と絶賛して耶馬溪と名
付けた。

大分県北西部、山国川流域の日本最大の溶岩大地。 この大地を山国川及び多くの支流やその他の河川が
彫刻して一大峡谷を形成している。耶馬渓は、第三紀末に耶馬渓火山が活動し、安山岩を噴出し、ついで集
塊岩層を広く広範囲に堆積したもので、その後さらに南西方から別の深耶馬溶岩が流入し、東方の低所を埋
めて大規模な溶岩大地を形成し、 さらに阿蘇溶岩がこの上を薄くおおっている。
山国川本流の渓谷を本耶馬と称し、多くの支流その他の
奇岩奇川にもいろいろな名称がつけられている。石の美、
樹木の美、U字峡谷の美など雄大である。集塊岩を刻む
ものには、英彦山(ひこさん)、羅漢寺耶馬渓、本耶馬渓
、東耶馬渓、津民渓がある。深耶馬溶岩の渓谷は深耶
馬渓、裏耶馬渓、南耶馬渓、椎屋耶馬渓などがある。
変朽安山岩を刻むものには奥耶馬渓などがある。








線路跡

昔耶馬溪鉄道であった線路跡を利用してサイクリングロードがある。線路であ
っただけに、急なアップダウンは無くトンネルや鉄橋を通り旧駅跡を利用した
休憩所があったりする。

山国川の支流金吉川沿いに奇岩・奇峰が続き南画を思わせる風景が続く。
新しい道ができている。「メイプルファームロード耶馬」という名前がついてお
り、トンネルが掘られ、なかなか快適な道である。特に周辺の奇岩・奇峰の
風景がすばらしい。耶馬溪の中でもこの近辺が奇岩・奇峰の一番多い場
 所である。




 





渓石園
 

 昭和60年に耶馬渓ダムが完成した記念として造られた庭園ダムのすぐ下にあり、池と渓流がある園
内には12万個もの石があり、大岩と緑、水のある風景は耶馬溪の自然を濃縮したもので、なかには高
さ6メートルの巨石も配されるなど、耶馬渓の雄大さと一体化した庭園美を醸し出して四季折々の自然
との調和を考え、岩峰、奇岩、森、渓流の変化に富んだ公園で得に大宰府天満宮よりの紅白梅や菖蒲
園があり、四季折々の花と紅葉の美しさがある。








耶馬渓ダム

 豊富な山移川の水を貯えた人工湖で、周囲は耶馬溪特有の岩と若葉、紅葉で美しい。3月から12月
にかけては水上スキーやジェットスキーもすることができ、隣接する河川プールでも楽しめる。昭和60年
完成、提頂長313m、提高62m、県下でもトップクラスのダムで、人々の生活を支えると共に、訪れる
人の憩の場でもある。








耶馬溪町








羅漢寺
 

 大化元年(645年)にインドの僧、法道仙人が金銅仏を持参し渡来、当山の霊峰に感動し、この地
に静座修禅して羅漢寺を開いたといわれています。仙人がこの地を去る際に残した観世音像(エンブ
ダゴン)は、この寺の霊宝として大切に保存されています。

 暦応の頃(1338年)栄西禅師の法孫、円龕(えんがん)昭覚禅師が、この地を訪れ耆闍崛羅漢精
舎と号しました。これが当山、山号の由来です。その後、円龕昭覚は訪ね来た逆流建順とともに16
羅漢など3700余体の石像を建造し、延文5年(1360)に完成、1000人余りの僧侶が集まり開眼
供養が行われたといわれています。

 以来、臨済宗26代を経て、慶長5年(1600)長州深川大寧寺より鉄村玄禅師が入山してから
曹洞宗に改まり、現住職まで27代となっています。

 全国羅漢寺の総本山で由緒ある寺である。羅漢寺は羅漢山の中腹にあり岩壁には無数の洞窟が
口を開き、山門も本堂もその中に埋め込むように建っている。

 そして洞窟には3700体以上もの石仏が安置されている。その中でも無漏洞(むろどう)の五百羅
漢は有名である。参道入口には青の洞門を掘った禅海和尚の遺品を納めた「禅海堂」がある。

 室町時代に足利義満公が、官僚細川頼之に命じ造営、鎮西羅漢寺の本山と呼ばれて名高い。  
昭和18年焼失、昭和44年再建された。

 大巖窟五百羅漢、秘境の扉に満飾された杓子の行列。 千人千様の願いを籠めて漏らさずすくう
救済のシンボル。無漏窟内に安置された応真の石仏五百体は、当山の開祖昭覚禅師と 中国天
台山の僧、逆流建順とが力を協せ精魂こめた悲願の力作。

平成15年10月現在








青の洞門
 

 山国川のほとりの競秀峰のすそに掘られた青の洞門。今は車が通るトンネルになっているが、昔
の素掘りのトンネルも一部残っている。 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」でよく知られる話が残ってい
る。人を殺めてしまった償いに難所であったこの地にトンネルを掘ろうと決意した禅海が、ノミとツチだ
けで30年かけて完成させたと言う話である。

 その昔、中津藩と天領日田の交通の要所であった。 1721年ころ禅海和尚がたまたまこの難所に
来て、この難所をよそに見過ごすことができず、一大誓願を起こした。 和尚は初めは村々を廻って熱
心に説いたが、これに耳をかすものがなかった。

 和尚は他を頼むのは愚かなるを思い独り鑿と鎚とをとつてこの大厳壁に向かった。 此の時誰が痴
と笑い、狂と誹らないで居ろう。 けれど念力堅固な和尚の鎚の音は日に月にさえていった。 一鎚一
鎚の先からは火花が散り、一年一年洞は深さを増していった。

 和尚の不動心は漸く村人の心に浸み渡って痴と笑ったものが和尚と共に鎚を振い、 狂と誹った者
が狂人のあとを追った。 和尚の念願に率いられた多くの人の力が合して30年、ついにこの洞門は
成就した。 貫通308歩。広さは騎馬の人の頭上なを3尺を余した。

 爾来ここを往来する幾千万の人悉く皆和尚の余徳に浴していないものは無いのである。 禅海和尚
は越後の人、旧高田藩士で俗名福原九郎。

 開通後村人の勧めで、通行人から1人4文、牛馬8文をとり1774年80余歳で死ぬまでに百両ほど
たくわえたが、羅漢寺に寄付したと伝えられる。








中津城跡

所在地:大分県中津市二ノ丁本丸
別 名:扇城
築城年:天正16年(1588)、慶長5年(1600)
築城者:黒田官兵衛孝高、細川忠興
形式:平城(水城)
遺 構:石垣、堀、模擬天守・櫓
主要城主:黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏
 豊前の領主となった黒田孝高が天正15年(1587)に九州平定の際に築城を始めたが、完成に至
らず黒田氏は福岡に去り、代って細川忠興、忠利父子が中津城工事を続け元和6年(1620)完成さ
せると同時に城下町を整備し田畑・山林を測量して土地台帳を作り治水工事なども行いました。

 忠興が築いた「金谷堤」が城跡の南方、山国かわべりの金谷に現存してます。また、忠興の妻は、
有名なガラシア婦人(明智光秀の三女)で、慶長7年小倉へ、寛永9年熊本へ移封しました。

 享保2年には奥平氏が入城して奥平昌成が10万石の居城として明治まで続き、明治維新後次々
と取り壊され、西南戦争で明治の廃藩を迎えるのに至り勤王の志士であった益田宗太郎(諭吉の二
従弟)によって明治10年に放火されすべて全焼失した。








 三斉池(慶長5年(1600)細川忠興が造った池)と城昭和39年には天守閣と二重櫓が新しく造られ
た。現在、天守閣には奥平家ゆかりの資料を展示している。

 また、城内の敷地には奥平成昌をまつる奥平神社、中津城内で暗殺された宇都宮鎮房らをまつる城
井神社、扇城神社などがある。
 








 中津城内にありました。奥平家は村上天皇を祖
とします。もとは関東の出ですが、戦国時代に三
河(愛知県)にうつり、長篠城主となりました。天
正3年(1575)の長篠の戦いでは、武田勝頼の
大軍を長篠城で28日間籠城して食い止め、織田
・徳川軍の鉄砲隊の活躍を得て大勝利を収める
原動力となりました。

 この軍功によって、徳川家康の長男を娶った奥
平信昌は、江戸幕府親藩となりました。

 享保2年(1717)、奥平正成がでは中津に入
城後は、明治維新に至るまで奥平家が中津城
主でした。







御祭神:天照皇大神(あまてらすすめらのおおかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)

由 緒

 明治14年9月、伊勢ノ神宮御分霊を奉迎し、神宮豊前教会として御鎮座。

 明治32年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮歴の
頒布業務を担当、豊前ノ国(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛=以上福岡県、下毛・宇佐=以上大分
県の計8郡)の総しずめの社として、又「豊前ノ国のお伊勢様」としてあまねく人々の崇敬をあつめ、そ
の後、幾多の返還を経て昭和21年4月、中津大神宮として今日に至る。又、近郷希にみる大型奉拝殿
は、豪壮で、縦長型上下段の間を設け、その格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵216枚
が奉納されている。社殿の前下段は公園地と言い習わされ、入り口には石造りの大鳥居が建つ。中津
市民の憩いの場であり、行事の場であるとともに、黒田高孝入城以来の城址として歴史をしのぶ場所
でもある。上段と下段は、石垣又は石段をもって明確に区分され、上段の社域の荘厳さと、下段の親し
みやすさが、対比をなしていて、市民の心の故里として親しまれている。








福沢諭吉旧宅

 

 慶応義塾の創始者である福沢諭吉の旧居である。諭吉は天保5年(1835)に大阪堂島の中津藩蔵
屋敷で生まれた。父が死亡したので諭吉が1歳6ヶ月の時に帰藩し、この家で19歳まで暮らした。

 寄棟造り、麦わら葺きの母屋と諭吉みずから土を練って修理した土蔵、土蔵の二階が 諭吉の勉強
部屋でした。

 3歳のとき父を亡くし、母と5人の兄姉と共に中津へ帰り、貧しい生活の中で漢学を学び幼少の頃より
英才を示し、兄の進めで蘭学を志して長崎へ、遊学藩の招きで江戸へ上がって塾を開き、蘭学を教授
するかたわら、英学を独習しはじめました。1850年咸臨丸で米国へ渡り以降海外渡航は二度に及び
ました。

 慶応4年、年号に因んで「慶応義塾」と命名しました。今の慶応義塾大学です。隣の記念館には
「学問ノススメ」の原本や遺品を展示している。








宇佐神宮(宇佐八幡宮

・所在地: 〒872ー0102 大分県宇佐市南宇佐字亀山2859 TEL 0978ー37−0001
・祭 神:  応神天皇(誉田別命:ほんだわけのみこと)
       比売大神 … 多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、
       市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、
       多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
  
       神功皇后(息長帯姫命:おきながたらしひめのみこと)
・由 緒:  全国四万余社の八幡宮の総本宮。宇佐に初めて八幡神が顕れたのは欽明天皇の
       御代で、御許山(おおもとさん)に鎮座。同天皇
32年(571)に現本殿のある亀山
       の麓の菱形池の辺に神霊が顕れ、「我は誉田天皇広幡八幡麻呂(ほんだのすめ

       らみことひろはたのやはたまろ)なり」と告げたので、この地に祀られた。これが宇
       佐神宮の始まりという。延喜式神名帳には八幡大菩薩宇佐宮、比売大神、大帯姫
       廟神社の三座として名神大社とある。
・行き方:  JR宇佐駅から大分交通バス中津行きで10分、宇佐八幡下車、徒歩10分。
・その他:  駐車場:500台 宝物館入館料:300円 開館時間:8時30分〜16時30分
宇佐神宮は全国4万社余りの八幡宮の総本宮です。

八幡さまは応神天皇の御神霊で、欽明天皇の32年
(571)に初めて宇佐の地に御示顕になったといわ
れます。

応神天皇は大陸の文化と産業を輸入、新しい国づく
りをされた方で、その神徳は強く顕現し、神亀2年(7
25)、聖武天皇の勅願により現社地に御殿を造立、
八幡神を奉祀されました。これが宇佐神宮の創立で
す。

もとよりこの宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くか
ら開けたところで、神代に比売大神が御許山に天降
られたと『日本書紀』に記されています。宇佐の国造
(こくぞう)はこの神を祀(まつ)り、八幡神が祀られた。
 6年後に神託により、二之御殿が奉祀されました。

 比売大神は後に海北の道中の主として筑前の宗像大社や宮地嶽神社、安芸の厳島神社に祀られ、福
徳愛敬、交通安全等の守護をされ、神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等、その御威徳が高く
顕れています。

 三之御殿は神託により、弘仁14年(823)応神天皇の御母「神功皇后」を奉祀されています。

 この三殿一徳の御神威は、奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使和気清麿公に国体を正してゆく神教を
賜ったことで特に有名です。

 皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟として御崇敬になり、勅祭社17社に列し、一般の人々にも鎮守の
神として広く親しまれてきました。その御分霊は、平安京鎮護のための石清水八幡宮や、鎌倉の鶴岡八
幡宮など、各地で祀られています。

 また聖武天皇は神宮の造営と共に神宮弥勒寺を建て、弥勒菩薩、薬師如来を本尊とされた。これによ
り国東半島に六郷満山寺院がたくさん造られました。

 そもそも八幡信仰は、応神天皇の御聖徳を八幡神として称え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の
神道を融合したものとも考えられ、宇佐神宮の神事、祭会や建造物、宝物などにそのうるわしい姿を遺して
います。

 本殿は国宝に指定され、総本宮にふさわしい威容を誇っており、千古斧を入れない深緑の杜に映えて美
しく、荘厳であります。








富貴寺

 昭和55年奈良国立博物館長倉田文作先生の目に留まり、「鎌倉時代の木彫りで運慶の作風をもっと
も正しく伝えた九州では唯一つしかない傑作」ということで国の重要文化財に指定されました。

 京都国宝修理所で修復されたとき、一枚の木札が体内から出てきました。表には献上した47人の名
前が書いてあります。

調べたところ「元」の大軍が日本に攻めて来た、弘安の役(今から約700年前)のころ、国土の安全を
祈り、運慶の弟子(慶派仏師)の手により荘園領主地頭などがこぞって仁王を献じた事がわかりました。

 木札裏には岡藩藩主中川久忠公が京都の大仏師山本左門に頼み、大修理をしたことが記されてい
ます。


 日本一流の仏師により制作修理され、今日に至っている仁王像です。

 富貴寺大堂は平安後期の建立で九州最古の木造建造物で国宝です。

 総カヤ造りで周囲に廻り縁があり簡素な形、優美な屋根の線がどっしりとした安定感を与えています。

 本堂は単層方形桧皮葺きであり、平安期鎌倉期の両様式の混在する建築で、明治40年国の特別
保護建造物に指定、昭和25年に国の重要文化財に指定されています。隅棟の反りは美しく禅宗建築
様式が多分に取り入れられています。

 内陣には秘仏観世音菩薩が奉安され17年毎の開帳、33年毎の本開帳が行われます。本堂は、慶
長9年、大正10年、昭和6年に大修理が行われ現在に至っています。


  市街地を流れる桂川本流に注ぐ、蕗川に沿った細長い蕗谷のほぼ中央にあり、かつては蕗浦阿弥
陀寺と呼ばれた本山末寺(高山寺末)です。この「蕗浦阿弥陀寺」という名称は、貞応2年(1223)の
「宇佐公仲寄進状案」に宇佐宮大宮司の祈祷所として出てくるのが最初です。つまり、当初は六郷満山
寺院ではなかったことがわかります。

 「蕗浦阿弥陀寺」という呼称は、当時においても阿弥陀堂すなわち現在の大堂を核とした寺であったこ
とを示しています。

 この大堂は、数少ない平安時代末の阿弥陀堂建築の違例として国宝に指定され、伝乗寺の遺仏であ
る真木大堂に収蔵されている諸仏とともに六郷満山文化の精華とも称されています。

 寛延4年(1751)に富貴寺が提出した寺社指出帳には、には、大堂以外に講堂や院主坊・大紋坊・
妙蔵坊・南之坊・東之坊・谷之坊・中之坊や末寺の清音寺などの堂舎があったことを伝えています。

 平成11年度、蕗川改修事業に伴い東之坊跡の推定値を発掘調査したところ、建物跡とともに13世
紀代の中国青磁器片や室町時代の硯を検出しました。このことから、13世紀から14世紀には寺として
の整備がかなり進んでいたことがわかります。

 現在の富貴寺は、大堂を中心として東南側院主坊跡地に本堂と庫裏の建物があり、東北奥の高まり
に奥ノ院、西北側に六所権現を祀っています。境内には板碑や笠塔婆・石殿などの石塔類も数多く残さ
れています。