上越新幹線の開通


 昭和57年大宮〜新潟で開業している。地図上にもトンネル部分を見ることが出来るが、これが、大清水トンネルだ。全長22.22q。もちろんループなんかない!最近の新幹線ってトンネル部分が多くて外の景色をみることが難しい。こんなにトンネルが多いとトンネルの有り難味が薄れてくる。
 上越新幹線の起源は、1969年(昭和44年)5月に閣議(佐藤榮作内閣)決定された「新全国総合開発計画(全国新幹線構想)」に見い出すことができます。当時の新幹線は東京−新大阪間の東海道新幹線のみで、新大阪−博多間の山陽新幹線は建設中でした。1970年(昭和45年)5月には「全国新幹線鉄道整備法」が公布され、翌1971年4月に、東北(東京−盛岡間)、上越(東京−新潟間)、成田(東京−成田間)の3新幹線の整備計画が決定されました。これを受けて、1971年(昭和46年)12月9日に大清水トンネル(保戸野沢工区、万太郎工区)で着工されました。東北新幹線建設を日本国有鉄道(国鉄)が担当したのに対し、
上越新幹線建設は鉄道建設公団が担当しました。総工費は4,800億円、営業開始目標は1976年度(昭和51年度)でした。また、1973年11月に「全国新幹線鉄道整備法」の基本計画線のうち、北海道(青森−札幌間)、東北(盛岡−青森間)、北陸(東京−大阪間)、九州(博多−鹿児島間)、九州(博多−長崎間)の5新幹線を整備計画線に格上げして着工準備に入りましたが、オイル・ショックと後の国鉄の累積赤字問題のため着工は見送られ、以後、この5新幹線を「整備新幹線」と呼ぶようになりました(北陸新幹線高崎−長野間は1997年10月1日に開業)。
 上越新幹線は、東海道新幹線の関ヶ原付近での雪害対策の失敗を受け、「雪で止まるようでは上越新幹線の値打ちはない。恥さらしだけはしない」ということで、積雪4メートルいう大雪の時でもダイヤ通りに運行できるよう積雪地帯にはスプリンクラーを設置して、線路上に降った雪を徹底的に溶かすことで、雪との闘いを制することにしました。
 
上越新幹線建設は、決して順調に進んだわけではなく、鉄道建設公団のトンネル技師に「青函よりもはるかに難しい」と言わせた「中山トンネル」の難工事、さらに上越国境に聳える谷川岳を掘り進む世界一の山岳トンネルと言われた「大清水トンネル」の掘削工事がありました。中山トンネル工事は、小野子山と子用山に挟まれた中山盆地の地下を掘る工事で、両火山活動によって複雑な泥流地層が形成され、大量の湧水に悩まされました。1979年3月と5月には大出水事故が発生して、一部が水没するというトンネル貫通さえ危ぶまれる事態となり、結局、大出水箇所を迂回する形で貫通させました。現在でも、高崎−上毛高原間で迂回するカーブの為、新幹線が減速しています。大清水トンネルは22.221qの当時世界一最長の山岳トンネルで、掘削途中に突然岩盤が飛び散る山ハネに悩まされ、1979年(昭和54年)3月20日にはトンネル内で爆発、16名が死亡する事故が発生しました。いずれのトンネルも1981年末までには貫通しました。その他のトンネルも大清水(22.221q)榛名(15.350q)中山(14.857q)塩沢(11.217q)魚沼(8.625q)月夜野(7.285q)浦佐(6.087q)湯沢(4.479q)堀之内(3.300q)石打(3.109q)と、高崎−長岡間はほとんどトンネルになってしまいました。 
 中山トンネルでの大出水事故、大清水トンネルでの爆発事故の影響から、同時に建設が進められていた東北新幹線よりも工事の進捗状況が明らかに遅れ始めていました。さらに、東京−大宮間は沿線住民の反対運動や用地買収の遅れから、上越、東北の両新幹線は大宮以北で暫定的に改行することにしました。着工当時の1976年度営業開始はとうに過ぎ、営業開始は1982年(昭和57年)までずれ込みました。また、東北方面の夏の需要を賄うには、できあがっている新幹線を有効に活用するしかなく、結局、東北新幹線が先行して開業することになりました。これは当時の国鉄としては大決断だったと言われています。1982年(昭和57年)6月23日。東北新幹線が大宮−盛岡間で開業。上野−盛岡間には〔新幹線リレー号〕が文字通りリレーしました。上越新幹線が開業するまでの間は、在来線を補完するようなダイヤでした。
 
1982年(昭和57年)11月15日(月曜日)。6時35分、上越新幹線の下り一番列車〔とき301号〕(200系電車12両編成)が盛大な開業式に見送られて、大宮駅を発車しました。また、6時45分、上越新幹線の上り一番列車〔あさひ190号〕(200系電車12両編成)が盛大な開業式に見送られて、新潟駅を発車しました。「日本海へグリーンライン」のキャッチフレーズのもと、上越新幹線の大宮−新潟間(269.6q)が開業し、初めて日本海側の都市へ新幹線が延びました。上越新幹線沿線には「高速交通時代」の幕開けを告げるものでした。計画時から問題になっていた越後湯沢−長岡間の新幹線駅は六日町と小出の間の浦佐に、仮称になっていた高崎−越後湯沢間と長岡−新潟間の新幹線駅の名称もそれぞれ、上毛高原、燕三条に決まっていました。「新全国総合開発計画」から13年、着工から11年。建設費は当初見込まれていた額の3倍以上の1兆7,000億円にまで跳ね上がりました。
 上越新幹線の列車名である
〔あさひ〕(速達タイプ)は山形県境に聳える朝日連峰から、〔とき〕(各駅停車タイプ)は佐渡に生息する国際保護鳥、新潟県の鳥である朱鷺から命名されました。
 開業時の上越新幹線は、〔あさひ〕、〔とき〕とも200系新幹線電車12両編成が共通で運用されました。200系電車は、雪に弱かった東海道・山陽新幹線用の0系電車の教訓を活かし、贅沢すぎるほどの寒さ・雪への対策が施されています。モーターや床下の機器に雪が入って凍らないように、雪切り室の設置や床下機器を覆ってあります。また、乗車時間が短いことから、食堂車の設置は見送られ、半室のビュッフェが設置され、そこには速度計も設置されました。客室は、3列+2列の新幹線標準型の座席配列で、3列側の座席は中央から車端側に向けて座席が固定されていましたが、2列側の座席は方向転換が可能でした。
 1982年の冬は上越新幹線にとって初めての冬でしたが、雪による運休はなく、雪に悩まされ続けた新潟県民にとって、グリーンラインの新幹線は頼もしく見えることもありました。その後も雪が原因となる運休はありません。
 1985年(昭和60年)3月14日。開業3年目の上越新幹線に「上野開業」という大きな転機がやってきました。“名義上”は東北新幹線として、
上野−大宮間(26.7q)が開業しましたが、上越新幹線も上野−大宮間に乗り入れる形で上野開業を果たしました。上野駅の新幹線ホームは地下4階につくられ、当時としては国内最長のエスカレーターが1階と結び、大連絡橋通路の完成とあわせて、上越・東北新幹線の開業で上野駅は様変わりしました。けれども、“東京の北の玄関・上野駅”のステータスはそのままでした。上越新幹線は、上野開業と同時に行われたダイヤ改正で〔あさひ〕〔とき〕それぞれ17往復に増発され、上野−越後湯沢間などの区間運転列車も設定されました。
 1986年(昭和61年)2月から、新幹線定期券「フレックス」が開始されたことなどから、高崎、熊谷から通勤に新幹線を利用する客が増え始めた。この頃から「新幹線通勤」という言葉が定着し、新幹線輸送の大きな柱となりはじめました。また、上野−新潟県内各駅間の利用が〔あさひ〕に偏り、上野−新潟間の〔とき〕に空席が目立ちはじめていました。
 1987年(昭和62年)4月1日午前0時。公共企業体「日本国有鉄道(国鉄)」は「JRグループ」に分割・民営化され、1872年(明治5年)の鉄道の幕開けから115年の国有鉄道の歴史は幕を下ろしました(JRグループは、正確には株式会社になったものの、全株を国鉄清算事業団が保有する特殊会社になりました)。上越新幹線は世界最大の鉄道会社となった東日本旅客鉄道(JR東日本)の営業下におかれました。国鉄最後の日となった3月31日は、新幹線・特急・急行の自由席をはじめ国鉄全線が1日乗り放題となる「謝恩フリーきっぷ」が発売され、上越新幹線も自由席の乗車率が200%を超す列車が続出し、JR発足の1日には上野駅の新幹線ホームでJR東日本の発足を記念する出発式が行われました。ちなみに、JR東日本のコーポレートカラーは、
上越・東北新幹線の200系電車のラインの色と同じグリーンで、200系電車には「JRマーク」が貼付されました。
 1987年(昭和62年)4月1日午前0時。公共企業体「日本国有鉄道(国鉄)」は「JRグループ」に分割・民営化され、東日本旅客鉄道(JR東日本)の営業下におかれました上越新幹線。国鉄からJRに変わっても上越新幹線は休むことなく走り続けました。上越・東北新幹線の上野開業の頃から東北新幹線での混雑が目立ち、その一方で〔とき〕の利用客が〔あさひ〕にシフトしはじめ、開業以来〔あさひ〕とともに12両編成で運転されていた〔とき〕は、1987年4月から10両編成に減車されました。さらにこの年の秋には8両編成にさらに減車され、〔とき〕の低迷ぶりが列車の両数にも表れました。もちろん、朝や夜の混雑する時間帯の〔とき〕は12両編成で運転される列車もありました。
 1988年(昭和63年)3月13日、青函トンネル・津軽海峡線の開業、青函連絡船廃止に伴うダイヤ改正は、4月に控えた瀬戸大橋の開通・瀬戸大橋線の開業とあわせて「レールで結ぶ一本列島」ダイヤ改正となりました。上越新幹線では、東北新幹線で先に実施されていた
240km/h運転が開始され、長岡のみに停車する「スーパーあさひ」が登場し、特急〔かがやき〕とタッグを組んで、JR東海の東海道新幹線の米原回りに対抗する、新たな東京−北陸間の鉄道ルートを開拓しました。一方の〔とき〕は上野−越後湯沢間などの区間運転列車が増発され、47本に運転本数は増えました。
 越新幹線は、東京−新潟間の都市間輸送、首都圏での通勤輸送がメインであったが、日本経済が好景気だった1987年(昭和62年)〜1989年(平成元年)頃から、「新幹線で日帰りスキー」が定着し、上越新幹線は新たな輸送が加わりました。8両編成の〔とき〕の混雑が目立つようになり、1987年(平成元年)1月から2年間、スキーシーズンだけ東北新幹線の〔あおば〕12両編成と入れ替えて運転され、輸送需要に対応しました。
 1990年(平成2年)12月20日、JR東日本が開発した「GALA湯沢スキー場」のオープンと同時に、上越新幹線の支線(法規上は在来線の上越線の扱い)・越後湯沢−ガーラ湯沢間が開業しました。このガーラ湯沢駅はスキーシーズンのみの営業で、GALA湯沢スキー場のスキーセンターに併設されました。上野−ガーラ湯沢間には、上野−越後湯沢間の〔とき〕が延長運転されたほか、途中大宮にのみ停車する臨時の〔あさひ〕、各駅停車の〔とき〕が運転されました。また、越後湯沢−ガーラ湯沢間には〔シャトル・ガーラ〕が運転されました。
 時間が前後してしまうが、ガーラ湯沢開業より前の1990年(平成2年)3月10日、上越新幹線に日本最速列車が登場しました。下りの長岡のみに停車する〔
あさひ〕、いわゆる「スーパーあさひ」に限定して、最高275km/h運転を開始しました。これは、高崎付近−浦佐付近の直線トンネル区間でなだらかな下り坂を利用しての275km/h運転で、山陽新幹線で500系電車が最高300km/h運転する(1997年3月22日)まで日本最速列車を誇りました。この275km/h運転によって、上野−新潟間は1時間36分に短縮されました。
 1991年(平成3年)6月20日。上越・東北新幹線にとっては待望の東京−上野間が開業し、線路はつながっていないものの、東西の新幹線網が一本になりました。技術的には東海道新幹線と相互直通運転が可能でしたが、ダイヤが乱れた場合に影響が広範囲に及んでしまうことなどから直通運転はありませんでした。もしかしたら、JR東日本とJR東海と営業する会社が違っていたからかもしれません。中央線、京浜東北線、山手線、東海道本線に東海道新幹線と余裕のない東京駅にどうやって、上越・東北新幹線を通すのか。東海道本線のホームを新幹線用に転用しましたがそれでも足りず、結局は、中央線ホームを重層化して、京浜東北線、山手線、東海道本線のホームを1つずつ丸の内側にずらし、スペースを確保することにしました。結局、東京開業時はホームが1つしかなく、臨時列車のほとんどは余裕のある上野発着となりました。さらにホームでの混雑の偏りを無くすため、12両編成の〔あさひ〕の自由席号車を1〜4号車から5〜8号車に変更したり、混雑時にはホーム上での乗車待ちをホーム下のコンコースに誘導したりと、苦肉の策が講じられました。この東京開業で、一部の列車が上野を通過することとなり話題にもなりました。その後も地下ホームの上野よりも乗り換えしやすい東京への流動が続き、地下ホームは少しずつ淋しくなっていきました。
 1993年(平成5年)12月に行われたダイヤ改正では、高崎・越後湯沢発着の〔とき〕が増発される反面、越後湯沢以北の〔とき〕が〔あさひ〕に変わって、ますます東京−新潟間における〔とき〕の低迷振りが浮き彫りになりました。高崎・越後湯沢発着の〔とき〕増発の背景には、新幹線通勤が定着したことが挙げられます。
 年々、新幹線による通勤輸送が増え、朝夕の時間帯にはせっかく高価なフレックス定期券を持っていても座れない事態も発生しはじめ、東京−大宮間の運転本数も限界に近づいてきました。そこでJR東日本は、1994年(平成6年)7月15日に日本初の
全車2階建て新幹線用車両E1系電車「MAX」を登場させ、大量輸送を実現させました。E1系電車は、自由席車の2階部分では3列+3列配置のシートも採用し、1編成あたりの定員は200系電車12両の約1.4倍となっています。E1系電車は、JR東日本の新幹線用車両としては、初めてVVVFインバータ制御を採用したため、小型で出力の高いモーターが使えるようになって、2階建ての大きな車体でも最高240km/hという高性能が出せるのです。上越新幹線では200系電車以来2系列目となったE1系電車は、東京−高崎間の一部の〔とき〕をはじめ、朝夕の時間帯の間合いを活用して〔あさひ〕の一部も置き換えられ、〔あさひ〕、〔とき〕に、弟分の〔MAXあさひ〕、〔MAXとき〕がデビューしました。2階席の眺望のよさから2階席が人気でしたが、上越新幹線では高崎−長岡間のほとんどがトンネルのため、せっかくの眺望の良さもトンネルの壁に阻まれてしまいました。その後も「MAX」人気は続き、「スーパーあさひ」に使用されたり、スキーシーズンのガーラ湯沢行に使用されたりしました。
 1995((平成7年)
10月22日、25日、29日の3日間、上越新幹線で初めて区間運休が実施されました。これは高崎駅の上毛高原寄り約3.3km地点に北陸新幹線への分岐工事によるものでした。国鉄時代の東海道新幹線では半日運休が計画的に実施されていましたが、上越新幹線では初の出来事でした。分岐工事とは高崎駅から北陸新幹線(下り)を独立させるのではなく、上越新幹線との分岐点まで共用させることで、新たな用地買収によるコストを削減する狙いでした。ここに設置されたポイントは「38番分岐器」と呼ばれるもので、JR東日本、鉄道建設公団、鉄道総合研究所が共同開発したもので、分岐側(北陸新幹線側)でも160km/hで通過でき、ポイント通過によるスピードダウンロスをできるだけなくしました。このポイント設置工事による区間運休が高崎−越後湯沢間で行われ、この区間は在来線による振替輸送が実施されました。この工事による輸送体系の概要は、高崎駅を基準に初発から13時(25日は11時)まで高崎−越後湯沢間の列車を全面運休させ、東京−高崎間、越後湯沢−新潟間で折返し運転、上越線に臨時特急〔新幹線リレー号〕(グリーン車を含め全車自由席)運転と特急〔新特急谷川〕1往復を水上−越後湯沢間延長運転をしました。〔新幹線リレー号〕にはJR東日本各地に散らばっている189系電車、489系電車、583系電車などが集められ、上越線は新幹線開業前の特急の賑わいを彷彿とさせる光景となりました。
 1995年(平成7年)12月1日のダイヤ改正でも、高崎・越後湯沢以北の〔とき〕が廃止されていき、新潟県の鳥・朱鷺なのに、新潟県を走らない〔とき〕の数のほうが多いくらいにまで東京−高崎・越後湯沢間の〔とき〕が増えていきました。東北新幹線でも仙台の青葉城から命名された〔あおば〕が那須塩原発着の〔あおば〕の方が多いくらいで、結局、このダイヤ改正で東京−那須塩原間(各駅停車)に〔なすの〕が登場しました。
 1997((平成9年)は、上越新幹線にとってターニングポイントとなる年でした。3月22日に、北越急行ほくほく線が開業したことで、上越新幹線・北陸ルートがほくほく線によってショートカットできるようになり、対北陸連絡が長岡での〔かがやき〕から越後湯沢での〔はくたか〕に変わりました。これに伴って、上越新幹線もダイヤ改正を実施し、長岡のみに停車していた「スーパーあさひ」を越後湯沢に停車したり、越後湯沢通過だった〔あさひ〕を停車させたりと、越後湯沢停車を重視したダイヤ改正となりました。また、ほくほく線開業と同時に、山形新幹線に次ぐ第2の“ミニ新幹線”である秋田新幹線が開業し、東京−大宮間には4新幹線12列車が集中し、東京駅に集結する新幹線は5新幹線15列車と多彩というよりも少々複雑になってきました。
 1997年(平成9年)9月30日。この日を以って、1962年(昭和37年)6月10日から35年間、東京と新潟を結び、新潟県民にとって東京への出張・行楽に利用し、上京した新潟県人にとっては、「上京列車」でもあり、ふるさとへの「帰省列車」でもあった「とき」の列車名が消滅しました。これは、JR東日本の新幹線が翌日に開業を控えた長野行新幹線(北陸新幹線)を含め東京を中心に5方面に広がり、東海道・山陽新幹線のように停車駅の数(各駅停車か、そうでないか)などで列車名を決めていましたが、新潟県の鳥・朱鷺なのに新潟まで行かない〔とき〕、青葉城がある仙台まで行かない〔あおば〕が増えはじめたりして、JR東日本は、従来の新幹線列車名のつけ方の方針を、長野行新幹線開業を期に大転換し、東京からの行き先によって列車名をつける方針にしました。このため、〔とき〕と〔あおば〕の列車名が消滅し、これらの列車名消滅は、新幹線列車の愛称としては初めてのことで、新聞などで大きく報道され、「何だか、かわいそう」「寂しい」といった声も聞かれました。上越新幹線〔とき〕は、長野行新幹線の開業による信越本線・横川−軽井沢間(JR線で最も急な勾配区間)の廃止とは対照的に、在来線特急〔とき〕の廃止の時のような“さよなら出発式”もなく、ひっそりと廃止されていきました。在来線特急時代から数えて35年。この日を以って、〔
とき〕は静かに終焉の時を迎え、その翼を休めました。
 1997年10月1日。上越新幹線は、東京−新潟間の列車を〔あさひ〕〔MAXあさひ〕、東京−高崎・越後湯沢間の列車を〔たにがわ〕〔MAXたにがわ〕としました。さらに翌年に長野冬季オリンピックを控えていた長野へ新幹線〔あさま〕が開業しました。これは、「整備新幹線」では初の開業区間で、北陸新幹線が正式な路線名だが、長野までしか行かない新幹線に「北陸」と呼称することや北陸へのルートは、上越新幹線と〔はくたか〕で混同されやすいなどから、営業上は「長野行新幹線」と呼ばれましたが、長野以西の着工が決まった頃から「
長野新幹線」と呼ばれています。また、長野行新幹線開業に合わせて工事が進められていた東京駅の上越・東北新幹線のホーム増設工事が完成し、従来の12番線・13番線から、20番線・21番線ホーム、22番線・23番線ホーム(旧12番線・13番線)となり、東京駅は、1ケタが在来線、10番台が東海道新幹線、20番台が上越・東北新幹線と、わかりやすくなったようです。さらに、長野行新幹線開業に伴うダイヤ改正で、大宮のみに停車する「スーパーあさひ」が登場しました。これにより、ほくほく線開業前は対北陸連絡の拠点だったため全列車が停車していた長岡を大宮停車の「スーパーあさひ」は通過するようになりました。
 1998年(平成10年)12月8日のダイヤ改正で上越新幹線に新型電車が登場しました。前年の長野行新幹線開業によって登場したE2系電車(8両編成)が上越新幹線にも本格的に運用されはじめました。これによって、開業以来の200系電車、全車2階建てのE1系、さらに新標準のE2系が上越新幹線を走るようになりました。ところで、1998年11月から航空業界の割引制度に似た割引きっぷ「あさひ朝トクきっぷ」が発売されました。これは、初発の〔あさひ301号〕とその次の〔あさひ303号〕に乗車することを条件に通常金額のほぼ半額の割引きっぷで、大好評を博し〔あさひ301号〕〔あさひ303号〕は隠れた最混雑列車となりました。2000年9月にこのきっぷは発売が終了されましたが、7日前まで発売する「あさひたび割7(セブン)きっぷ」に衣替えし、これも好評を博しています。
 1999年(平成11年)には200系電車の内外装をリニューアルした編成が登場しました。これは、従来の200系電車のイメージを一新して、200系電車の特徴であったグリーンラインは消えてしまいました。さらに2001年(平成13年)5月には朝の通勤時間体の着席サービスを目的に、1997年12月に東北新幹線に初導入されていた「新型MAX」のE4系電車が上越新幹線に導入されました。これは全車2階建て8両編成を基本に8両+8両の16両編成でも運転でき、16両編成時の定員は1,634人で高速車両としては世界最大の定員数を誇っています。E1系電車と同様に普通車自由席として使われている1〜3、9〜11号車の2階の座席は、3列+3列の座席配置になっています。E4系電車では、各車両にワゴン昇降機が設けられ、E1系電車ではできなかった充実したワゴン車内販売が行えるようになりました。
 上越新幹線は一見すると延伸することはないと思われがちですが、新潟空港への乗り入れが計画されたことがありました。逼迫する成田空港の混雑を少しでも緩和することができるように、上越新幹線を新潟空港まで乗り入れさせ、韓国、中国、ロシア便を中心にヨーロッパ方面の航空機を新潟空港発着にしようというものでした。当時、新潟を中心に脱太平洋時代とも言うべき「環日本海時代」を唱え、日本海対岸の韓国、ロシアを中心に交流を図り、経済を発展されようとしたものでした。しかし、日本経済の低迷によって、この計画も進まず、上越新幹線の新潟空港乗り入れ計画は頓挫してしまいました。また、羽越本線を標準軌に改軌して、山形・秋田新幹線のような“ミニ新幹線”を酒田まで走らせようという計画がありますが、こちらも計画段階です。
 2001年。21世紀も新幹線は走り続けています。2002年(平成14年)末には、東北新幹線が八戸まで延伸する予定です。さらに九州新幹線も2004年(平成16年)ころには開業する見込みです。これらの新幹線開業によって、並行する在来線はJRから経営が分離され第三セクター鉄道になる予定です。「青い森鉄道」、「いわて銀河鉄道」は既に会社が設立され、受け皿準備が始まっています。


                              jyouetsu shinkansenより