今回の旅行会は積立金が底を突き、この10月に出かけるには満額使用ならずで、悩んだ結果行き先をインターネットで見つけ、足代をホテル持ちで出かけられる熱海温泉・岡本ホテルの“会長コース”スーパーコンパニオン宴会の旅行を企画し、会員9名の都合を聞き全員のスケジュールの合う10月11日〜12日で決定した。

 初めてのインターネットでの買物が旅行という海のものとも山のものとも分からないものに手を出したので、旅行当日までは紆余曲折はあったが、心配していた事も次々とクリアーし、何とか男ばかりの今年も珍道中の始まりだった。

 11日の当日は前日までの晴天がウソのように崩れ土砂降りの朝を迎えていた。傘を指して京成押上線曳舟駅までは徒歩で向かい、都営地下鉄に乗り継ぎJR浅草橋まで行き、東京駅まで秋葉原経由で普通なら22分で行けるとこだが、倍以上かけてやってきた。ここから有楽町のほうへ向って、鍛冶橋駐車場まではまたまた傘を差しての歩きが、ダラダラと歩いたので20分もかけて到着。

 9時の時間には正確に出発するという事だったので1時間半も早く地元を出たのが正解で、既にバスは駐車場脇の内堀通りに待機していた。初めてのことで良く事情は飲み込めていなかったが、駐車場内は各バス会社が利用していて、誘導員の指示で所定の位置に停まるのかと思いきや適当に空いている場所に停車した。岡本ホテルのバスも5台、一目見れば直ぐに分かる“はとバス”のように真っ黄色に車体全体が塗られていた。

 横一列では無かったのと行き先が熱海行きと伊東行きそして熱川行きがあった。係員といえばバスの運転手だけで、いちいち行き先のバスの運転手に訪ねて、やっと見つけバスに乗り込んだ。席は指定席になっていて決められた所に着席し、時間になると首都高速も東名高速も渋滞しているので、トイレに行きたい人があれば、是非今行って来てほしい予定の海老名まではどれだけかかるか分からないというので半分ぐらいの人たちが駐車場のトイレに向かい、全員が帰ってきたのは9時を15分過ぎていた。

 首都高速も込み合っているという事で環状線の呉服橋からではなく、高速1号の京橋インターから入場し新富町、銀座と順調に飛ばし、汐留の合流辺りに来ると浜崎橋ジャンクションを過ぎるまではノロノロ運転だったが、芝浦ジャンクションの首都高速11号線のレインボーブリッジへ行く車線が分かれるとスムーズな走りで、浜松町から出てきたモノレールと並行し、港区港南辺りでは上を新幹線が大井の基地に向う線路下を通り、なおもモノレールと並行し鮫洲辺りまで一緒だった。何両かと擦れ違ったが、モノレールも乗客全員が座っている程度だった。

 1号線も大井競馬場やしながわ水族館あたりで左に大きくカーブして、平和島を過ぎ、昭和島シャンクションで湾岸線と合流し、運河を渡ると大森の森ヶ崎水再処理センター、森ヶ先公園の狭い間を再び並行して羽田空港との間の海老取川下を通って空港西出入口で再び左右に別れ、モノレールは羽田空港へ、高速は横羽線へと多摩川を渡る。

 今まで東名というと必ず環状線から高速3号線、そして、多摩川を渡り東名に入っていた。横浜からのお客も乗せることもあると聞いていたが、東京で満席だったのだが、横浜からの乗客の席があれば、こういうコースで行くのだろうが、横浜市内や周辺の道路網も、この時初めて知った。時間も込んでいる時の3号線を使うのと変わらない時間で行くことが出来き、思ったほどの込み方もしなかった。

 多摩川を渡ると、産業道路の上に入った。大師出入口付近にはインターの工事が右に見え、ループ橋のように一回りしている。どうやら東京湾アクアラインへ乗り入れられる道路がここでジャンクションするインターらしい。左右には煙突に目立つ工場群が延々と続いている。浜川崎辺りではJR南武線、鶴見大橋手前では鶴見線と線路上を通過し、生麦ジャンクションを通過し、遠く彼方にはベイブリッジも見え、ドンドン近づき子安インターからは、貨物線が左下にそして倉庫や空地が目立っている。右側はチラチラ建物の間から第一京浜や京急、JRが見え、ビルが多くなり横浜駅の手前で線路を横切り、三ツ沢線になり2つばかりトンネルを潜ると保土ヶ谷インターから横浜新道を走った。まもなく相鉄線の上やトンネルを2つ潜ると新保土ヶ谷いんたーで、ここから国道16号保土ヶ谷バイパス線に入ったが、ここでも殆んど渋滞もなく走り、東海道新幹線や相鉄本線を跨ぎ、南本宿・本村・下井川・上井川各インターを過ぎ、東名高速の横浜町田インターまで来て入線した。

 東名高速も南下し境川が横浜と大和市境、間もなく小田急江ノ島線、バス停があって交通情報でお馴染みの大和トンネル、そして、4つのアンダーパスを抜けると相鉄本線が上を通過する。ここいらから綾瀬市で左奥は米軍の厚木基地北端から西側になり、東名高速は21ヶ所もアンダーパスを通過し10時20分海老名のサービスエリアに到着。

 20分間のトイレ休憩。建物前の広場では“ゴーイング★ハイウェー2008”NEXCO中日本から、ありがとう、と書かれたものは壁に貼ってありリズミカルなダンスを12人で披露し、後では大きな旗を左右に振り回していた。携帯や一眼レフでシャッターを切り結構な人気だった。横隅には、小学生の女の子が出番を待って父兄や応援の旗を持った親子が待機している。

 テントも左右に何張りも張られて“伊豆へおいでよ”の幟が立っていて伊豆観光推進協議会横幕もあり、中々の賑わいで射的を楽しむ子供もいて商品を貰ったり、小田原北條手作り甲胃隊によるや鎧兜を着込んだ武士の格好やナギナタを持って装束を着込んだ一団がいて愛想良く、観光客に写真を撮らせたり居合わせた観光の外人や一般客と一緒になって写真に納まったりとサービスを振りまいていた。

 トイレ休憩の20分も時間になり、まっ黄色のバスは良く目立ち迷いもせずに戻ると海老名サービスエリアを出発した。5分もしない内に厚木市との境を流れる相模川を渡り、厚木インターから小田原厚木道路に入った。渋滞を予想された道路もここまでは順調に走ってきた。246号と平塚を繋ぐ129号線出口を過ぎ、厚木西インターも過ぎ、すこぶる順調な走りで、まだまだ畑や田んぼの残る田園風景を眺め2本に分かれた歌川へ越え、ほぼ真南に2km余りも進むと伊勢原インターで更に1.5キロメートルも進むと大きくな勾を描いて右にカーブする頃になると左右には田畑の中の一本道、花水川を越し虫食い状態の住宅地が飛び飛びにあって平塚インターとなり、又しても渡る川は金目川でインターのようなものもあった。

 直線が3kmも続くと平塚の料金所になる。左右はやや小山になり住宅などはチラリホラリとしか見えない中を走り見通しが利かなくなりだし緑が迫り来る狭い間を行くと大磯インターがある。この間にも小川が3本ばかりあった。インターを過ぎ二宮町に入ると左に大きく広がった住宅団地の先に350mぐらいのトンネルになる。トンネルを出ると住宅が密集して時たま新幹線も見えたりして葛川を渡ると二宮インターとなる。インターを過ぎると住宅もぐっと少なくなり造成地や荒地が多くなり、山間を走りことが多くなって有料道路は右左にカーブしながら押切川を渡り、1km余りの弁天山隧道をくぐり、JR御殿場線・森戸川を相次ぎ跨ぎ、小田原市に入った。道路はほぼ真西に向かい酒匂堰を越えると小田原東インターで僅かに進むと255号線から入線する料金所がある。

 酒匂川を渡ると蛍田駅近辺で小田急小田原線と狩川、伊豆箱根鉄道大雄線と相次ぎ跨ぎ南下し、トンネルをくぐる。それも直ぐ右のカーブして住宅街のど真ん中を通過し、JR在来線や新幹線の小田原駅の真北をに当り、アンダーパスして一般道路が5つばかり上を横切る。そして、山間に入り荻窪インターすぐさま750m余りの風祭トンネルに入る。

 トンネルを出ると箱根登山鉄道、国道1号線、早川と間髪を入れずに狭い合間を通過する。その上を有料道路は走り小田原西インターから西湘バイパスに入る。しばらくすると、ターンパイクの出入口で、出口が上を跨ぎ合流する。そうこうする内に早川インターで、そして左が小田原、右が早川へとの分岐点にやってくる。それまで順調に通過してきた道路も一気に渋滞が始まり、波打ち際に立てられた橋脚の下には打ち寄せる波も見える高位点にバスは停まって動かない。この時11時12分だった。

 右側にはJR早川駅、漁港とあり、漁港入り口の上に小田原ブルーウェイブリッジ、合流する石橋インター、山と海との狭く長い町並みも途切れると、料金所、そして一般道と合流する3重苦の合流に時間を要して、国道135号線を走り出したが、久しぶりに来て感じたのは整備されて道路も広く感じた。山間のちょっとした隙間に民家が建ち並び、海岸近くまで山裾ので平地は全くない道路は、延々続き並行するJRはトンネルを出たり入ったりを繰り返しJR根府川駅近くまで来て、住宅が広がり広い空間を感じた。旧道と有料のバイパスと二手に別れバイパスを走り、駅を過ぎ白糸川を過ぎるとまたまた山が押し迫り、鉄道が江之浦トンネルから出て幾分広くなり出光のガソリンスタンドが右にあると目に入る頃には鉄道は再び長い真鶴トンネルに入った。

 真鶴町の標識を過ぎると小トンネル、そして料金所、海には岩などが見え、新島トンネルを潜ると岩海水浴場を跨ぐように架けられた岩大橋をから先は大きく開けて真鶴の全景が見える。岩インターになり、小高い山の上まで立てられた家並みの下、真鶴港や真鶴半島の東の付け根から西の付け根までの1.5km余りトンネルがあり、抜け出ると足柄下郡湯河原町、福浦のインターになる。

 海岸線からJR真鶴駅の更に山の上まで家並みは続く、そして、湯河原海水浴場、新崎川の吉浜橋の信号で135号線と合流するまで真鶴道路は続いた。川の先千歳川までの間、海岸は埋立てられファミリーレストランや湯河原高校、オーシャンスパおおきじま、湯河原海浜公園、浄水センターなどで1km足らず行くと熱海市との境を流れる千歳川の千歳橋を渡ると熱海ビーチラインの有料道路になり、500m足らずで料金所が現れる。

 料金所を過ぎ疎らな建物しか存在しなかった大黒崎を辺りで135号線は有料道路から離れると一際家並みが増えたと思いきや瞬く間になくなり、135号線は少し山の上を走り、時々木々の陰に隠れたりして海岸線は左側の大きく開けて初島もハッキリ確認できる。そして、弁天岩が見え、伊豆山温泉になる。



伊豆山温泉と伊豆山神社

 創建時期は定かではないが、社伝によれば孝昭天皇の御代(紀元前5世紀〜紀元前4世紀)といわれる。古くは以下のような名で呼ばれていた。

伊豆大権現(いずだいごんげん)
伊豆御宮(いずおんみや)
伊豆山(いずさん)
走湯大権現(そうとうだいごんげん、麓の海岸沿いに点在した温泉および間歇泉に由来し、
        推古天皇3年(594年)に朝廷から贈られた名であるとされる)
走湯山(そうとうさん)
火牟須比命神社(ほのむすひじんじゃ)

 伊豆山神社(いずさんじんじゃ)は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。現在の祭神は伊豆山神(火牟須比命(ほのむすひのみこと)、伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと))。全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格である。

 日本三大古泉のひとつとして数えられる伊豆山「走り湯」は、奈良時代に発見された全国でも唯一の横穴式の源泉。古来より走り湯権現として崇められ、伊豆山温泉発祥の源泉として発展した。海岸線に7軒の旅館、ホテルが存在する。洞窟の中から源泉が湧出する「走り湯」が温泉街の名物である。但し走り湯の源泉は枯渇しており、観光用に別の源泉を引湯している。熱海ビーチラインのすぐ脇には走り湯もある。走り湯の目の前にある「うみのホテル中田屋」には、「走り湯資料館」があり、かっての、走り湯は一昼夜に7千石(1296d・毎分900g)の湯を噴出し、源泉温度が70度ほどあったといわれるが、乱掘が続いた結果現在は毎分180g、70度ほどとなっており、伊豆大島の噴火などで温度が上昇する事もあった。

 走り湯は源頼朝・北条政子をはじめ、三代将軍や北条氏早雲などの領主たちが入浴した。1590年(天正18年)秀吉による小田原征伐によって伊豆山は焼け野原となり、その際は仮小屋草葺き屋根の粗末な風呂場であったという。しかしながら江戸時代の大名、歌人、茶人利休、吉田織部などもお参りの際入浴した。

 江戸城構築の為に伊豆山から沢山の大石が船で運ばれ、多くの者が各大名の元で働いており、その為怪我人も絶えず、走り湯に入っての治療も盛んで、治療効果もずば抜けていたという。江戸時代は、この温泉に庶民が入る為には旅籠の湯、または海に近い湯の捨て湯である波打ち際で入るしかなかったといわれる。その為、益々走り湯と伊豆山権現は有名になり、東北地方からも団体の“講”がお参りしていた。海岸にあった旅籠の風呂に入ってから宿の主人御師(祈祷師)に引き連れられて、伊豆山権現までの900段近い石段(現在は873段)を昇った。

 走湯山は湯の湧き出る場所があり、走り湯と名づけられ、699年(文武3年)7月1日(旧暦5月25日)に、役行者小角(えんのぎょうしゃおづぬ)は、朝廷の役人に護送され配流の地、伊豆大島に向かった。伊豆大島に配流になったがじっとしていることができないで、島を抜け出しては浜辺を歩きまわり、富士山をはじめ近辺の山々を踏破した。あるとき、伊豆山海岸から五色(赤白黄青黒)の湯煙があがっているのを目にした小角は、海岸に上陸し走り湯の近くに草ぶきの小屋を作り、湯滝を浴び、日金山や岩戸山に登り、神仏に祈る修行をした。

 やがて今の伊豆山神社がある場所が中心となり、伊豆山を天に昇るめでたい龍に例え、富士山から入った龍が日金山から岩戸山までを胴体、伊豆山権現の場所は目、現在の浜町内にある花水を鼻、走り湯が口で呼吸をしており、富士山まで繋がっているという信仰が生まれた。現在も縁結びや恋愛成就を目的とする参拝客に人気がある。


 当初は日金山(ひがねさん、久良地山とも呼ばれる、静岡県熱海市、現在の東光寺(とうこうじ)所在地で熱海峠のほど近くの山上)にあった。その後の変遷については諸説があるが、本宮山(ほんぐうさん、静岡県熱海市伊豆山、現在の本宮神社所在地)を経て、承和3年(836年)に甲斐国の賢安なる僧が現在地へ遷座させたとの説が有力である。

 日金山は丸山(今の十国峠)と呼ばれ、富士山や駿河湾、伊豆諸島、相模灘を含めて10の国が見える景色の良いところであり、修験者はここから富士山を拝んだ。(源実朝が、「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」と歌ったものが有名で、伊豆山神社では源実朝を偲ぶ中秋の名月歌会が伊豆山神社で毎年開かれる)。

 毎年11月10日、列格記念日祭に併せ温泉感謝祭を執り行れ、伊豆山地区には114本に昇る源泉があり、この源泉を使用し、多くの施設に温泉を供給し、各施設は、感謝祭当日の初湯を清浄な器に入れ神社に御献湯し、自然の恵みを奉謝し温泉の長久・商売の繁盛を祈念する。



興亜観音

  熱海市伊豆山にある観音像。昭和15年2月(1940年)、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、親中派として知られた松井石根陸軍大将が、この地に聖観音を建立した。観音像は松井石根が転戦した中国各地の戦場の土を材料として作られた。境内には極東国際軍事裁判(東京裁判)において戦争犯罪人(いわゆるA級戦犯)として処刑された、松井を含む7人分が混じった遺灰が葬られ、そこには吉田茂筆による「七士之碑」が建てられた。またBC級戦犯の刑死者1,068柱の供養碑(大東亜戦争殉国刑死1,068柱供養碑)も存在する。



 
 真っ赤なアーチの橋の崖上には水葉亭がそびえ、回り込むように右にカーブする。すると直線の道路は前方が開けて相模湾に浮かぶ初島が良く見える。熱海ビーチラインの料金所を通過し、5分後には温泉街の全貌が見渡せるビーチサイドの坂を下って、135号線に合流し右にホテルの建物、解体されて残骸になったホテル跡と変わり行く町並み、熱海シーサイドスパリゾート・ホテルミクラス・ホテルかつらが、並び少し高台に南明ホテル・大月ホテル和風館・フルや旅館が見える。

 左側サンビーチには、お宮貫一像や新しくなった松の木、緑地帯には様々な草花、そして熱海桜を初めその他の木が植わり、季節季節の花が咲く。シーサイドを過ぎるとヨットハーバーで、40年以上前によく行っていた頃には海岸線の道路を波飛沫を浴びながら、和田川の先のホテルへ忘年会や新年会に出かけたことが思い浮かんできた。

 今は135号線も真っ直ぐになり、糸川の茶川橋を渡って、中央町交差点で右折して熱海街道に入り商店街を走り市役所前交差点、消防署前を通ると次の交差点右角にある“岡本ホテル”に来て交差点を右折して正面前でバスから降りた。到着は12時ジャスト。ホテルのフロントに荷物を預けて昼食の場所探しに出かけた。予め予約をしておいたわけではないのでホテルの食事の注文が出来るか聞いた。土日以外ならいいが今日はだめということで外に決めた。

 されど予備知識もなく、フロントで聞きホテルを出て、熱海市内のメインストリート清水町商店街を右に進み、初川の清水橋まで来たが見つからず、その先のスルガ銀行角の信号のある交差点まで歩いてしまった。後で気付いたが左に行くと起雲閣もある。諦めて折り返し店前に奇抜なUFの館のようなアルミ製のオブジェの横から店に入り、まず生ビールや瓶ビールにアンチョビオリーブとチーズ・ソーセージ盛り合わせ・イタリアンハム3種盛り合わせなどをつまみに乾杯し、飲物のお代わりをして食事はパスタミートソースときのこ・ピザしらすと青のり・アジアンタイ屋台風ひき肉のまぜご飯・函南ファームの野菜カレー(15穀米のご飯)などの1品に飲物のセットだった。各々好きなもを注文した。但し飲物はコーヒー・紅茶・ジャスミン茶。マサラチャイ・オレンジジュースだったので、ビルやお酒に代えて貰った。

 それまで照ったり曇ったりを繰り返していたが、からりと晴れ上がり、一杯機嫌でブラブラ歩きに出かけた。今回は全く予定のない勝手な行動を趣にしていたので、足の向くまま気の向くままという珍道中を試みてみたというのは表向き、この2、3年の旅行会の浪費で1年分の積立費用もなく、時期としてはこの時期でないと全員参加できないという特殊事情も相俟って、気乗りしないまま、最近人気の出ているといわれる熱海温泉にした。私を初めとして、ここへは何回も来ていて温泉に浸かってトンボ返りしか知らない仲間なので思い切って遊び心を試みた。帰ってからどんな反響があるかは定かではないが幹事の特権を使わせてもらった。

 お腹も満たされ眠くなった人もいたようだが、各自思い思いに外に出て、熱海の町の散策に出かけて行った。私も3人連れでホテルを左に出て、糸川に架る御成橋から川沿いニューフジヤホテルの裏を通って本町商店街の通りを左に進んで、熱海駅方向へそぞろ歩きと洒落こんだ。福島屋というホテルで右に90度も急カーブして坂道を上り始めた。以前良く行ったホテルは国道135号線和田川の和田川橋を渡ってホテル大野屋へタクシーに乗って熱海駅の下り坂を下ると平らな道をタクシーで走るだけの街しか知らなかったので何と急坂の多い所かと、改めて知る事になった。

 寛一ホテル右手前は建替え中の部分から熱海城のある方向が逆光ではあったが良く見え道路脇は崖にもなっていた。坂は益々急になり右にカーブした。小さなお土産屋が建ち並び始め、冷やかし半分で覗き込んだり中にはいたりを繰り返していた。時に一軒の店に入り若い店員と話し始め、生物の練り製品を買うことにした。同じものを3つ2品頼むと、今すぐには取り揃えないといわれ明日の朝なら大丈夫だといわれたが、こちらも如何なるか分からないのでホテルに届けてくれるかというとそれも叶わないといわてしまった。

 ショーケースに入った他の物を買い、待っていると店の中の縁台を進められ、座って待っているとお茶と口直しの沢庵を持って来て進められ食べながらお茶をすすって3人が買ったものを袋に入れて持ってきた。食べた沢庵は地元の“七尾たくあん”と傍に置かれたパンフレットには、こう書かれていた。

 もうひとつの旬・七尾たくあん。採りどき11月、食べどき2年後から。結べるほどに干した大根を、樽に
詰めて2年、色香の到来を待つ。静岡県熱海市伊豆山七尾。

糠漬けか香物と呼ばれる所以は、その芳醇な香にある。大根と糠と塩のいったどこから、かくも芳ばしい
香が生じるのか。歳月がつくるひね漬けは、音高く噛むほどに味わい深い。

 しわくちゃのくせに、噛めばぽりぽり小気味いい音がして、複雑微妙な味わい芳香が口に広がる。関西
では“香々”というのが一般的で、たくあんというのは、関東の呼び呼び名だそうだ。

 たくあんの名の由来は、江戸初期の僧侶沢庵が作ったからとも、たくわん漬けから転嫁したともいわれ
るが確かな所は分からない。記録によると、江戸の衆は練馬の農家に頼んで、たくあんを漬けてもらった
という。

 原料は、首が細く尻の太いしもぶくれの練馬大根。抜くのに難儀だが皮はかたく肉厚で、空っ風に半月
干して、丸2年も重石の下じきになってもへたらない。他の大根なら筋と皮だけになっているところだ。

 独特の歯応えと色香をもつひねたくあんには、いまも練馬系の大根が使われている。

 漬け樽に入れるのは、大根と糠と塩だけ、糠の味でも大根の味でもない、あの芳ばしい風味は、どこか
ら生じるのだろう。

 決め手は、時間と重石である。重石と塩によって抽出する。干し大根の水分と米糠の成分。それを目当
てに集まってくる。乳酸菌や酵母などの微生物が一仕事する。

 まず微生物が糠のでんぷんを酸化する。これと干し大根の濃縮された糖分を甘党の酵母が食ってアル
コール分をつくり出す。

 アルコール酸酵が幾重に達すると、エステルなどの香り成分を生成して甘い果実の香りも漂う。

 芳醇なはずだ。木樽の内では微生物たちが、せっせと酒を醸していたのである。

 微生物の営みだから、季節の移り変わりにあわせて、活気づいたり静まったり、ゆるやかに進んでい
き、アルコール酸酵が頂点を過ぎると酸味が強くなる。

 塩が少ないと酸酵が早く進み、遅いと活性が抑えられて酸くなる。昔の人は良く心得たもので、大根の
干し加減、つまり水分量と、塩分量を加減して、酸酵の進み具合を自在に調節している。

 冬に漬けて春までに食べてしまうものは、塩を控えめに、夏を越すものは塩を増やして塩梅する。

 酸化防止剤も化学調味料も冷蔵庫も使わずに、食べたいときに一番おいしくなるように、漬け分けてい
たのである。


 
買ったお土産をぶら下げて更に坂を上りカーブもして、来宮駅方面から来る道路と合流しバスに乗ってくる時海岸通りで見えたホテルの裏側の市内のメイン通りを左に90度近くカーブもし、土産屋がずらりと建ち並ぶ道は少しも坂は緩くならないで今度は右に同じようにカーブして、セブンイレブンや昭和シェルのガソリンスタンドを過ぎると、アーケードが見えてきた。

 平和通り名店街入口のネオン看板の下には、歩けないほどの老若男女が犇めき合い坂道を上り下りして、土産屋に出入りし、人伝には聞いていたが、これほどまでの人が観光に来ているとはツユ知らず、瓢箪から駒でオーという唸り声さ来てしまった。道の中央には所々に休憩用にベンチなども用意されていて座って談笑するカップルもいた。

 委細構わず坂を上って熱海駅前に来た。駅前は変わったような変わらないような雰囲気だが、やっぱり変わっている中央には機関車が展示され、花壇があったり、バス停やタクシー乗場も整備されスッキリしている。駅構内に入ると改札正面には芸者が横にずらりと並んでいる。興味半分に聞いてみると、毎週土日にはこうして熱海へ洋こそと愛嬌を振りまいているとのこと。

 坂ばかり登ってくたびれてしまったので、駅前の岡本ホテルの送迎バスを見わし探すと各旅館バス発着所に小型乗り合いがとまっていて5分もするとホテルに向うというので乗せて貰ってホテルまで帰ってきた。時間も部屋に入れる時間にもなっていたので部屋番を確認して畳みの上でゴロッとした。今回は幹事でもあり今日明日の行程は任されているのだが、行きと帰りの時間だけをチェックすれば後は自由行動という、この会始まって以来初めてという別な方向から見れば無責任旅行といわれかねない企画をしてしまった。

 宿に着けば、夕方の宴会までは思い思いに各人が行動して、宴会時間には小さな、宴会場が用意され9名と9名のコンパニオンの差し向かいの2時間が始まった。禅を真中に挟んで差し向かいになったり、横に侍らし飲んだり飲ませたり食わせたり、チョット下品な事をしたり、あっという間に2時間はすんでしまった。時間延長してくれというリーダーの要望を袖にして部屋に帰ってきたが、間もなくすると、また、してもさっきのリーダーが1名でも2でもといわれたが、気に入った子がいないといって断り、それからは飲める者だけが車座になって1時、2時まで飲み1人減り2人減りして布団の中に入ってぐっすり寝込んで、起こされるまで朝が気が付かなかった。

 朝食はバイキングで、思い思いにジュラルミンのお盆に和食であったり洋食であったり、食べ物を載せてテーブルに着き、ビールを頼んで朝酒を飲んだり、中々元気があった。今日も予定は全くないので昨日同様自由時間、昼食場所や時間も成り行き次第で決めるということで、10時近くまでホテルにいたが、次第に連れ立って外に出て行った。大部分は熱海駅の方へ行ったが、私とI君はホテルを左に曲がって来宮の駅を目指した。

 こんな珍道中で熱海市内を放浪する事も、何度も来ていても初めてだったので、何の下調べもしてないので行き当たるバッタリの出発になった。幸なことは坂道ばかりで何処にいても、自分が何処にいるかということだけは分かるので、安心して歩きまわれる。坂も登りきったように上がってくると、其処には横たわる東海道本線や一段高く並行する新幹線が開(はだ)かる。

 左に行き高架下をくぐると前方には、来宮神社が鬱蒼と茂る手前に大鳥居境内参道を進むと何千年というクスノキの折れてしまった樹囲5mもある立ち木など、随所にあって昼なお暗いというのが実感できる左右には祠などもあり清水も出ていて本殿・拝殿になる。引きも切らずに参拝する人々で一杯。

 神社に来るのが全てではなかったので元に戻り、来宮の駅を目指しバス停にいた若い女の子に駅を訪ねたがわからないという返事で、新幹線や在来線の下を潜り抜けて線路伝いに右に行った。熱海警察前を過ぎると来宮駅はあった。駅前のバス停で時刻表を見ると直ぐにはバスも来ないので駅構内に入り、アチコチ見回して列車の時刻表を見ると、10分後には熱海行きの伊東線があることが分かりバスよりも安く行けることも分かった。

 切符を買ってホームで待っていると、丹那トンネルの入口が見え、写真でもとカメラを構えると待避線に電車が入って来てトンネル入口は忽ちに見えなくなってしまった。仕方なく山の方を見たり海の方を見たりして時間潰しをしていたが待つ時は1分でも長く感じるが、10分は長かった。そんな折下りの電車が来たが、ホームには沢山人はいたが誰一人乗っかって行く人もなく電車は出て行った。

 待ち焦がれて電車はやっと来たが、電車の中は一駅間だがギッシリ乗かっていた。熱海駅まではトンネルもあり海はよく見え、140円の旅は2分少々だったが面白かった。ホームの階段を降り改札を出たが、仲間たちの姿は見えなかった。駅構内の熱海デパート1Fおみやげの街、2F、中2Fお好み食堂・喫茶の街500席の中に入って、商品を見漁ってから、携帯電話をかけるかといっているうちに電話があり、平和通り名店街の中間に7人でいるというので、待ち合わせて坂を下って、昨日土産を買った付近の、中国菜室・壹番で、生ビール・紹興酒・日本酒などと麺類の食べ物締めて2万円ばかり食べると、再び2時までの自由行動にした。

 こうして仲間と一緒に飲食店を出て土産物屋を覗きながら歩いている内にばらけて、歩道に真っ直ぐに大湯間歇泉まで350m右に行くJR来宮駅の先にある梅園まで1600mなどと填め込んだ敷石を踏み込んで坂を下り、二股を右にはいると左には、噴気孔があり鍋が乗せてあった。書かれた札には温泉玉子は20分で出来ますと、温泉蒸気が低いため、茹で玉子はできません。ご迷惑をおかけしますが原因を調査中です。熱海市観光施設課の二通りがあった。

 更に坂を下り、十字路に来ると、左ニューフジヤホテル、右に入ると大湯間歇泉(熱海市指定文化財・昭和52年4月25日指定)が建物前に人工的に作ったようなゴツゴツした岩の間から、時々ビックリさせるように噴出している。

 大湯間歇泉 熱海温泉街のほぼ中央にあり、大正12年の大震災ごろまで、定期的間歇泉として一昼夜2回、規則正しく熱湯を噴出していたが、震災後は蒸気だけになった。昭和38年に空気を送りこんで人工的に復活させ、現在は5分おきに温泉を噴き上げている。傍らに英国初代公使オルコックの愛犬の霊を慰めるために建てられたの「愛犬トビーの碑」がある。

大湯間歇泉

 世界3大間歇泉の一つとして有名であったこの大湯は、大正初期までは定期的間歇泉として大量の湯けむりを噴出し、その壮観をうたわれていましたが、大正12年の関東大震災を境として噴出が不規則となり、翌年13年ついに止まってしまいました。

 初期の大湯は約1時間おきに噴出していましたが、明治25年頃には、1日6回までにおとろえました。当時は26日周期で“長湧”という現象があり、1回が12時間から16時間もの噴湯し続け、この大湯の噴湯は年々衰え、大正初期には1日2回、同6年には1回になり、その勢は次第に弱まり種々の復旧案もむなしく、大正13年以降は全く止まってしまいました。

 しかしながら昭和37年復活工事に成功し、現在では4分後とに3分間噴出しています。また、慶長9年に徳川家康公が熱海に湯治してから、毎年定期的に江戸城本丸、西の丸に熱湯を汲んで献上したお汲湯の行事にのっとり、熱海温泉観光行事の一つとして、毎年2月10日と10月10日に献湯際が行われている。

◎間欠泉の仕組みには「空洞説」「垂直管説」などがある。

※空洞説

 空洞説は、地下にある空洞に溜まった地下水が地熱により温められる。水蒸気となって地表に噴出するという説である。空洞説を最初に提唱したのは、1811年でアイスランドで研究と調査を行ったJ・マッケンシーである。日本では、本多光太寺田寅彦らによって研究された。本多、寺田は、熱海温泉にあった大湯間欠泉をモデルとして理論構築を行った。

 空洞説概要図より空洞説を説明する。図の通り、地下に空洞Aが存在し、噴出管aを通じて地上と繋がっている。空洞内の水が地熱により加熱され、空洞A内の水蒸気圧が上昇すると、噴出管aに溜まった水を押し出す。ある程度の量が噴出されると、噴出管a内の水蒸気圧が低下し、噴出が停止する。導管cから地下水が供給され、再び空洞Aの水蒸気圧が上昇すると、噴出が再び起こる。何度か噴出・休止を繰り返すうちに、導管bおよび導管cから空洞Aに低温の地下水が供給されて空洞Aの水蒸気圧が大幅に低下して、長期の休止期間にはいるというものである。

空洞説は、大量の温泉を長時間噴出する大規模な間欠泉は説明できる。しかし、地下空洞の認められない小規模な間欠泉の原理を説明することは難しかった。

垂直管説


  垂直管説は、ドイツ人のR・プレゼンにより1846年に提唱された。

地面に対して比較的垂直に噴出管aがあり、噴出管a内に地下水が溜まる。溜まった地下水は、地熱により加熱され、下層部が沸点に達する。下層部が沸騰を始めると、生じる水蒸気の泡が噴出管a内を上昇し始め、それに押し出される形で緩やかな湧出が地表で開始する。噴出管a内の泡が増すにつれ、管内の水圧が低下する結果、下層部の沸点が下がり、一気に沸騰(突沸)を始め、激しい噴出が始まる。

しばらく噴出が続くと管内の熱水が無くなって噴出は終了し、休止期間に入る。噴出管aにつながっている導管bから新しい地下水が流入し、次の沸騰開始まで加熱される。

日本の野口喜三雄は、間欠泉内の塩化物イオンなどの変化量から、垂直管説を支持した論文を1939年に発表している。

一般に、一回の噴出量が少なく、噴出周期が数分から数十分の間欠泉の説明に適していると言われている。また温泉探査ボーリング等によって発生する間欠泉のメカニズムを完全に説明できる。1997年、島根県津和野で行われた試掘によって多量の二酸化炭素を含む温水間欠泉の噴出が始まったが、同じ 垂直管内の突沸のメカニズムで説明することができる。

オールコックの碑ととトピーの墓

 駐日初代英国公使サー・ラサフォード・オールコックは、1859年イギリス総領事として来日、翌年9月富士登山を行った帰路、熱海に立ち寄り約2週間滞在しました。彼は外国人として最初の富士登山を試み、、熱海来訪についても“自分が最初の外国人である”としてこの記念碑を建てました。

 また、本国から連れてきた愛犬トピー(スコッチ・テリア)が噴湯に触れて大火傷を負い死んでしまった際に、里人は、人の死を悼むのと変わらない葬儀を行い丁重に弔いました。後に、江戸に戻ったオールコックは、かわいそうなトピーと刻まれた石を熱海に送り墓石としました。

 当時は生麦事件や英国公使館襲撃事件などにより、日本人の印象が悪かったが、日本に有利な出来事としてオールコックは、この出来事を“日本を敵視すべきではない。誠に親切な国民である”と本国に報告しました。これにより、英国世論が親日に傾いたのです。

市外通話発祥の地(熱海)

 温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は明治の頃多くの政治家や政府高官が保養や会談のため来遊したので、東京との連絡が非常に多く、そのため東京〜熱海間に電話回線が敷かれ明治22年1月1日に開通しました。

 東京の電話交換業務が開始されたのが、それから2年後の明治23年12月でした。それまで熱海側は内務省噏滊館(熱海電話局)、東京側は木挽町にあった東京電話局で通話料のほか呼び出し手数料を取って公衆電話の取り扱いを開始したものです。これが、我国最初の市外通話です。

 噏滊館のあったのが、この場所でしたので、わが国市外通話発祥の地を記念して“市外電話創始の地”の碑を立てました。このボックス公衆電話は熱海市が、このように電話に大いにゆかりが深いので明治100年を記念して、わが国最初のボックス公衆電話(明治33年東京の京橋のたもとに設置され、、ボックスの型は六角で白塗りでした)を模して復元したものを今回改装したものです。

 このボックス公衆電話は実物ですから熱海を訪れた記念にご利用ください。


昭和61年11月19日     熱海市、NTT熱海電報電話局




 

熱海市

市 役 所 熱海市中央町1番1号
面   積 61.56ku(東西7.52km・南北13.9km)
人   口 40,266人(平成28年8月1日現在)
市 の 花 ウメ 
市 の 木 アタミザクラ
市 の 鳥 カモメ
市 の 色 スカイブルー 
姉妹都市 別府市・サンレモ市(イタリア)・カスカイス市(ポルトガル)・珠海市(中国広東省)



 市域内はほとんどが丘陵であり、別荘地や住宅なども高台の上に立つ所が多く、道路も勾配の急な坂が多い。海岸線もすぐに丘となる所がほとんどだが、中心部は埋め立てで砂浜海岸などが形成されている。

 古くからの湯治の地であり、地名は「阿多美」であったが、海から熱い湯が湧き出ていたことから「熱海」とされた。1604年には徳川家康も来湯している。鉄道省熱海線(現在のJR東海道本線開通以降、首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。かつては新婚旅行や職場旅行の定番(行き先)であり市の中心地東海岸町などには大型ホテル・旅館が数多ひしめいていた。1990年代以降社員旅行の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽化し転業も多い。

 熱海温泉の起源は、今からおよそ1250年前の天平宝字(755〜765年)頃、箱根権現の万巻上人が、海中に湧く熱湯によって魚類が焼け死に、甚大な被害を被っていた漁民たちを助けようと志し、祈願によって泉脈を海中から山里へ移したことと伝承されている。

 最も熱海の発展に寄与した1人が徳川幕府初代将軍・徳川家康公で、 慶長9(1604)年3月、家康公は義直、頼宣の2人の子供を連れて、7日間熱海に逗留。京都で病気療養中の吉川広家(周防・現在の山口県)の見舞いとして熱海のお湯を運ばせました。元祖「温泉宅配便」は後に「御汲湯(おくみゆ)」として歴代徳川将軍に継承され、 4代将軍家綱公の時(1667年)、大湯の温泉を真新しい檜の湯樽に汲み、それを頑強な男数人に担がせ江戸城まで運ばせるようになった。 ちなみに同じく「御汲湯」の歴史がある群馬県・草津温泉は8代将軍吉宗になってから。

 「熱海よいとこ日の丸たてて 御本丸へとお湯が行く」 という唄が生まれ、その後、湯樽は船で運ばれるようになり、8代将軍吉宗公の時が最も盛んで、 享保11年から19年までには3640樽送ったと伝えられている。家康公が熱海を幕府の直轄領としたことで土地の治安・風紀が守られ、各地の大名、明治以降も時の要人、軍人、文化人などが頻繁に熱海に訪れている。

 2006年、熱海市長は財政危機宣言を発している。理由として基金の取り崩しによる黒字であり、基金が底をつく可能性が高いためである。プライマリーバランスでは事実上赤字財政である。しかし近年の原油高騰に伴って自動車の利用が控えられる傾向にある中で、都心の近くにあり、鉄道交通の便のよさから離れた客足が戻ってくる傾向にある。

 現在、東日本旅客鉄道の東海道本線は熱海の先の来宮信号場までで、この先の丹那トンネルより東海旅客鉄道の管内となる。信号場では客扱い、乗務員の交代が出来ないため、どちらも熱海駅で行われる。

 なお東海道本線が開業する前には、人車軌道・軽便鉄道として豆相人車鉄道→熱海鉄道が1895年〜1923年の間存在した。日本遊覧飛行鉄道という伊東市まで結ぶモノレールの敷設計画も戦前に存在した。戦後、熱海モノレールが計画され、当時の運輸省から免許が出されたが、諸般の事情で工事ができず、結局、幻のモノレールとなった。

映画撮影
「女」(1948年) 「東京物語」1953年)
「48歳の抵抗」(1956年) 「熱海ブルース」(1962年)
「キングコング対ゴジラ」(196年) 「大巨獣ガッバ」(1967年)
「熱海殺人事件」(1986年) 「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード」(2003年)

新金色夜叉 作詞作曲・宮島郁芳

1・熱海の海岸を散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り
2・僕が学校おわるまで 何故(なぜ)に宮さん待たなんだ 夫に不足が出来たのか さもなきゃお金が欲
   しいのか
3・夫に不足はないけれど あなたを洋行さすがため 父母の教えに従って 富山一家に嫁(かしず)かん
4・何故(いか)に宮さん貫一は これでも一個の男子なり 理想の妻を金に替え 洋行するよな僕じゃな
   い
5・宮さん必ず来年の 今月今夜の此の月は 僕の涙で曇らして 見せるよ男子の意気地から
6・ダイヤモンドに目がくれて 乗ってはならぬ玉の輿 人は身持ちが第一よ お金はこの世のまわり物
7・恋に破れし貫一は すがるお宮を突き放し 無念の涙はらはらと 残る渚に月淋し

熱海を有名にした「金色夜叉」

 高等中学生の間貫一(はざまかんいち)が、許婚の鴫沢宮(しぎさわみや)を資産家の富山唯継(とみやまただつぐ)に奪われ、高利貸しの鬼となるストーリーですが、特に熱海の海岸での別れの場面が有名で、超人気小説となった。 
小説は尾崎紅葉の死によって未完のまま終わり、読者の想像力をかきたて、一目でも物語の舞台を見ようと多くの観光客が熱海を訪れた。

 現在アタミには400名ほどの芸者がいるが、今から25〜30年ほど前は1,000人ほどもいたそうだ。「夜には芸者さんたちもぞろぞろ歩いていて、観光客は旅館の浴衣で下駄をならして、銀座通りを大勢歩いていたもんだよ。今は、浴衣で歩く人も少なくった」確かに今ではあまり浴衣姿で出歩く客は少ない。

湯めまちをどり「華の舞」 ・熱海芸妓見番歌舞練場(中央町17-13・初川沿い)

 熱海芸妓の草分けは江戸に生まれ、幼少の頃から遊芸一切の修行を積んだ「坂東三代吉師」を遊芸師匠として大正初期に世を去るまで一生を芸事の伝授に努め、熱海芸妓の名を広く世に高めました。その熱海芸妓による『湯めまちをどり』をここ芸妓見番で見ることができる。

料   金 大人1,300円
日   時 毎週土曜・日曜開催、午前11時00分より1回
公演時間 30分程度

 芸者は、踊りや三味線などの日本の伝統芸能で宴を盛り上げるプロ、ほどんとの芸者がこれを生業とし、一人前になるには当然厳しい稽古を積む。関東では「芸妓」「芸者」など、関西では「芸子」と呼び、修行中の芸者は「半玉(はんぎょく)」と呼ばれ、京都では「舞妓」という。

 全国でも屈指の芸者街。ほとんどの芸者は派遣業社に相当する「置屋(おきや)」に属し、100を超える「置屋」があり、250名余りの芸者が活躍し、全国では2,800人といわれる。

 明治10年、阪東三代吉師は樋口ろく遊芸師として熱海浜町に居住し、宿屋に滞在のお客に稽古の相手をし、長唄は杵屋、踊りは阪東流で、明治43年には三代吉師の功労記念碑を明治の豪商・公爵・侯爵らが、大乗寺の山門の所に等身大の碑を建てたとの事、今では跡形もない。

 大正元年に三代吉師の後継者である喜久さん遊芸師の妹である「若椙はな」は「春の家お花」として遊芸師となり、大正7年頃27〜28名で、芸妓と呼ばれるようになったのは、昭和7年熱海芸妓組合設立になってからで昭和11年に195名になった。

 昭和25年に熱海大火があり、置屋も大分焼け出されました。それを機に、熱海の街並みも随分変わり、現在の組合になるまでは転々と事務所を移しました。昭和29年に現在の組合の建物が完成し、立派な建物で、東海一の芸妓組合といわれ、平成2年には永年念願だった「熱海をどり」が開演され、その開期は毎年4月28日・29日と決められた。

 “熱海芸妓”を熱海の代表文化であると捉え、積極的に内外にアピールし、平成10年6月からは、“芸妓見番ぶらり・湯めまちをどり華の舞”と称して、芸妓見番(置屋の組合)を公開。熱海の伝統芸能を身近に目の前で観賞出来、 芸者の踊りを見た後は、芸者との会話や、記念写真撮影も人気。

 芸者の世界では、時間を“本(ほん)”で数え、“1本(いっぽん)”とは30分のこと。「一座敷(ひとざしき)」は2時間ですので、本数にすると「4本(よんほん)」となり、支払う代金を玉代(ぎょくだい)・花代(はなだい)といい、直接芸者に支払うのではなく、宿の明細に組み込まれて、宿泊代と一緒に支払う。

芸妓用語
置屋(おきや) 芸者が所属するエージェントのこと。熱海には約100
見番(けんばん) 置屋の組合のこと
一本さん(いっぽんさん) 大人の芸者
半玉さん(はんぎょくさん) 芸者の玉子
玉代(ぎょくだい) 芸者を呼んで遊ぶご料金。花代、線香代ともいう
お座敷(おざしき) 芸者が招かれる宴席
こま 少人数のお客の座敷
立ち方(たちかた) 踊り手の芸者
地方(じかた) 三味線や太鼓の演奏、唄をうたう芸者。別料金
1本(いっぽん) 芸者30分の玉代

 



熱海梅園

 1885年に今の梅園のあるところ山林二町五半(2.5ha)を開いて、「国民の健康の元をつくるには温泉と自然に親しむことが第一」と、熱海梅園開くことを明治のはじめ、医祖長与専斎が提唱した。横浜の豪商茂木惣兵衛氏をはじめ、中山神奈川県議会議員、地元の日吉、小松、露木の諸氏が提唱に応じ、梅・松・桜・桃・楓・杉・柿・柳など三千本を植えたのがはじまり。

 1〜3月に行われる梅祭りは、日本一早咲きの梅として有名であり、樹齢100年を超える梅の古木や、早咲きの梅の他にも、中咲き・遅咲き約730本・64品種の梅が咲き乱れる。期間中は、芸妓連演芸会や野点茶会や歌謡ショー、琴演奏会、甘酒無料サービスなどイベントが行われる。市街地の中央を流れる初川の上流で、有名な東海道本線の丹那トンネルは、この真下を通り、函南へ抜けている。

中山晋平記念館

 大正初期から大衆音楽普及に大きな足跡を残し、日本ビクター鰍フ専属でもあった「てるてる坊主」「肩たたき」「シャボン玉」などの著名な作曲家・中山晋平を偲び、中山晋平が居住していた別荘を移築し、遺品と共に保存され、 日本庭園の静かなたたずまいの中に落ち着いた木造建築がとけあい、ここを訪れる人々の心に安らぎを与えている。

住所 梅園町「熱海梅園」内
開園 10:00〜15:30 ※入館無料
休館 毎週木曜日
交通 熱海駅より「相の原団地行き」バスにて約15分「梅園」下車
電話 0557-85-1933

姫の沢公園

 市街地中心部より北西約5kmに位置し、四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコース・人工滝・陶芸センター等が整備され、家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができる。また、平成17年1月にはスポーツ広場が人工芝となってオープンし、サッカー・ラグビー等に利用されている。

起雲閣

 静岡県熱海市昭和町4−2にある観光施設・熱海市指定有形文化財。大正8年(1919・建築)。丹那トンネル開通時の鉄道大臣を務めるなど政財界で活躍した農商務相内田信也が実母の静養の地として造った別邸であり、玄関、「麒麟」の棟、離れの「孔雀」が当時の姿をとどめている。

 その後、大正14年に東武鉄道グループの礎を築き「鉄道王」の異名で呼ばれた根津嘉一郎の手に渡り、ほぼ現在の姿に整備され、戦後は熱海温泉を代表する旅館として営業。緑豊かな庭園を備えた3,000坪におよぶ敷地。大正・昭和の浪漫を残す建築様式。数多くの文豪たちに愛された名邸は、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、三島由紀夫を初めとする多くの文学者や政界、財界の著名人が訪れた。日本近代建築の特徴を備えており、暖炉やガラスの採光など大正時代の建築様式が残っている。映画撮影でも利用され、新藤兼人・乙羽信子などが旧い時代を演出している。

 “麒麟”“大鳳”の棟、“孔雀”の棟、“金剛”“ローマ風浴室”の棟、“玉渓”“王姫”の棟、表門は今年3月に市の有形文化財に指定された。

麒     麟

別荘の母屋として伝統的な和風建築のたたずまいながら、洋式の構造を取り入れるな
ど、斬新で先駆的な技術も使われている

孔     雀

比較的地味な建物で、二度、敷地内で移転した

金     剛

螺鈿(らでん)細工によって模様が施された西洋館

ローマ風浴室

改築で多くが現代の材料に改められたが、ステンドグラス、テラコッタ製の湯出口などに
建築当時の姿を残している

 “玉渓”“玉姫”の棟はサンルームと2室から成り、主室の“玉渓”は英国チューダー様式の建物です。暖炉の覆いにサンスクリット語の飾り、入口天井に竹があしらわれるなど独特の空間となっている。

○開館時間  9:00〜17:00 (入館は16:30まで)
○休 館  日 水曜日(祝・祭日の場合は開館)、12/26〜30
○入 館  料 大人 500円  高・中学生 300円・(注)20名様以上は団体割引。
<交通案内> 熱海駅より徒歩20分



熱海温泉郷

 東から、伊豆湯河原、伊豆山、熱海、多賀、網代、そして初島 の6つの地区からで、静岡県の最東端で、富士山の南東に位置する。

伊豆湯河原




 静岡県と神奈川県との県境、熱海市の東端の温泉場で東京からの伊
豆に入る玄関口。周囲は箱根山に囲まれ、南に相模湾を望み、温泉街
の中央を十歳川が流れ、川に沿った山裾に旅館がある。緑に囲まれた
閑静な温泉場で、熱海・箱根とは違った雰囲気を持ち、安らぎを求めて
訪れる多くの客に親しまれている。
伊  豆  山



 ひとは、それぞれの感動を求めて旅に出る。日本の心を伝える歴史とロ
マンを映す山や渓谷の美しく豊饒な海の幸、山の幸、あふれでる天与の
いで湯、そこに様々な感動がある。感動は融けあって、新しい旅の思い
出を作る。伊豆山には最古から続く、数々の物語がある。
熱    海



 街の中心部、海山に囲まれた温泉街、山の手は姫の沢公園、熱海梅
園といった自然公園、海辺はサンビーチや親水公園、お宮の松などがあ
り、今や熱海の代名詞となった“熱海海上花火大会”も熱海湾で開催さ
れている。
多    賀



 のどかな自然とあたたかな人情・素朴な漁村の風情が慌ただしさの中
の日常を忘れさせてくれる豊富な温泉と新鮮な海の幸に四季の旬を味
わい、スポーツで心地よい汗を流し、イベントを楽しむ贅沢な気分、湯の
郷、感動の旅、伊豆多賀温泉。
網    代



 長閑で懐かしい風景が広がる網代温泉、新鮮な海の幸と豊富な温泉で
心体も癒され網代港周辺には釣堀や、ひもの銀座と呼ばれるお土産店の
並んだ通りがあり、毎月第2日曜日に“あじろ日曜浜市”がかいさいされ
ている。
初    島






 “箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る身
ゆ”と三代将軍源実朝に詠まれた“初島”熱海港から定期船で25分程の
距離に浮かぶ島は相模湾と緑に囲まれた周囲4kmの静かな島。磯釣り
やスキューバダイビング・シュノーケリングなどが楽しめ、島内を散策して
いると都会のそれとは明らかに異なる時間が流れ、日常を離れたゆった
りした雰囲気に会える。伊勢エビ・さざえ・イサキ・ワラサ・活イカと海の幸
は豊富。

 




来宮駅

 島式ホーム1面2線の地上駅である。簡易Suica改札機設置駅。

 東海道本線のすぐそばにあり、地理的には伊東線がここから分岐するかのような状態であるが、駅があるのは伊東線のみである。並行して走る東海道本線上には、東京方面から熱海止まりの列車が折り返すことができる2本の電留線がある。かつてここは来宮信号場とされていたが、当駅の開業時に当駅に併合された。

 伊東線の0kmポストは当駅に置かれている。よって、当駅以東は本来は東海道本線ということになるが、熱海・来宮間は伊東線の戸籍も含まれており、二重戸籍区間となっている。なお丹那トンネルを抜けてきた東海道本線の東海旅客鉄道(JR東海)とJR東日本の会社境界は上り場内信号機近くの繋ぎ目である。これは、当駅の構内配線が東海道線と一体不可分になっており、旅客営業上の会社境界である熱海駅に会社境界を設置すると、当駅の資産区分が極めて複雑になるためである。

 丹那トンネル(たんなトンネル)は東海道本線の熱海駅(営業上では伊東線来宮駅)〜函南駅間にある複線規格のトンネル。総延長7,804m、1934年開通。完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長であった(もし工事が順調なら、清水トンネル以前に完成する予定で、笹子トンネルに代わり日本最長のトンネルとなるはずだった)。

 この付近は活火山の箱根山から続く火山地帯で、トンネル自体は活動を止めた熱海火山(多賀火山とも呼ばれる)の山体を貫いている。通常、火山の山体には緻密な溶岩流層と十分固結していない礫や砂で、できた層が存在する。そのため大量の水を溜めたり湧き水として湧出させたりするが、丹那トンネルの上部にある丹那盆地も地下に大量の地下水を溜めていた。またトンネルは活発な活断層である丹那断層を横切っており、トンネル掘削中の1930年にこの断層を震源とする北伊豆地震が発生した。この断層以外にもトンネルは4か所の大きな断層帯を横断しており、大湧水を伴う1か所の火山荒砂帯とともに、工事進捗の阻害要因となった。

 大量の湧水事故も発生した。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられた。水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15kmに達し、抜いた水量は6億㎥に達した。トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった。このため、鉄道省は丹那盆地の渇水対策(貯水池や水道等の新設、金銭や代替農地による補償等)にも追われることとなった。現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われてしまった。

 犠牲者が最も多かったのはトンネル崩壊事故で、一度に16名の犠牲者を出した大規模な崩壊事故が2回も発生した。1930年の北伊豆地震でも崩壊事故があり3名が犠牲になった。尚、1923年には関東大震災が発生して、熱海線や東海道本線(現御殿場線)に甚大な被害を与えているが、工事中の丹那トンネルそのものにはほとんど被害がなかった。

 丹那トンネル工事の犠牲者全67名の殉職碑が、鉄道省によって熱海側の坑門の真上に建立されている。付近にある、工事の際に労務者の信仰の篤かった山神社なども含めて、地元有志の手で「丹那神社」として整備されている。

 工事は熱海口を鉄道工業、函南口を鹿島組が請負った。函南口の犠牲者36名に関してはもう1つの慰霊碑が鹿島組によって函南側の坑口近くに建立されている。この碑は当初は東海道本線の線路の北側にあったが、現在は南側に移転している。現在は鹿島建設によって整備されている。

 新丹那トンネルは長さが7959mで、東海道新幹線用のトンネルとして丹那トンネルのすぐ北側に設置された。トンネル工事は戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画の一環として1941年に開始され、1943年に第二次大戦の戦況悪化のため中止になるまでの間に先進導坑は熱海口647m、函南口1433mに達していた。1959年に今度は新幹線のために工事を再開し、1964年に完成した。

 静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が存在する。これは戦後の新幹線計画からの地名でなく、戦前の弾丸列車計画時代に新丹那トンネルの工事を行うための従業員宿舎が置かれた場所である。工事終了後、従業員宿舎は撤去されたが、その後同地に住宅団地が作られ「新幹線」という地区が生まれることとなった。同地区には新幹線公民館や「幹線下」という名のバス停も存在する。



錦ヶ浦

  静岡県熱海市熱海から同市上多賀にかけての相模湾沿いの地域。国道135号沿いに広がる海岸線であるが港湾はなく、舟の発着はない。国道は海岸線より数10m上を走っており、錦ヶ浦トンネル・曽ヶ浦トンネルがある。かつては道路が断崖絶壁の上にあることから“自殺の名所”として有名で、今でも心霊スポットとされている。

 JR熱海駅から伊豆東海バス網代旭町行きで「錦ヶ浦」停留所下車。なお徒歩では旧道のトンネル「観魚洞」やホテルの前を通らなければならず、歩道も整備が不十分なので、危険である。

 伊豆半島は旧道の宝庫。かなり古い時期に車道の開設が行われており、また海岸沿の断崖に道が作られ、防災上好ましくない線形や道路が多い。左に向かう1.5車線程度の幅の道が旧道。新道は奥の所でトンネルに入る。なお、旧道のトンネルは高さ制限3.7mがある。また道幅も乗用車同志ですれ違える幅しかない。

 旧道は、トンネル坑口手前のところでは、なぜかネットが張られていた。なお、トンネルは完全1車線であり、交互通行である。坑口の所でカーブしているため見難い。石積みのポータル。迫石、要石、パラペットのある美しい坑門だ。新道のトンネルは、ごく普通のコンクリートポータルであるが、迫石と要石を配して、2車線の極々普通のトンネルだ。



熱海城

 熱海城は、昭和34年(1959年)に海抜 100m の位置に建てられている。外観5層、内部9階の日本の城郭に見られる天守を模して造られた鉄筋コンクリート造建築であり、天守閣風建築物とよばれるものである。天守閣からはパノラマ眺望は熱海市街、湯河原、真鶴半島、初島、大島、相模湾を一望することができ、よく晴れた日には遠く房総半島まで見渡せ、その先の網代、伊東方面の伊豆半島、目を転じると緑濃い箱根連山の山並みと、自然豊な見晴らしは天下一品。三方が断崖という、城郭を築くには理想的な場所であり、北条家歴代の名将たちも、築城を目指しながら果たしえなかったと伝えられる。



マリンスパあたみ


 誰もが気軽に熱海の温泉を満喫できる、全天候型健康運動施設「マリンスパあたみ」は、熱海ならではのオーシャンビュー!目の前に青い海が広がり、温泉そのものの気持ちよさだけでなく、熱海が誇るすばらしい自然が皆さんを迎えてくれます。中でも3階の屋外温泉施設では、お湯につかりながら熱海湾が臨めます!そしていつきてもSPAリゾート!季節や天候に関係なく、いつでも楽しく過ごせます。
高低差およそ8メートルのウォータースライダーや温泉プールでアクティブに体を動かすのもよし、健康温泉浴室や入浴施設でじっくりと体を癒すのもよし。楽しみ方はあなた次第です。
水着着用で温泉を満喫する施設なので、性別へだてられることなく、家族やカップル、仲間たちなどが、みんなでいっしょに楽しい時間を過ごすことができます。また、水着を持っていなくても、館内で販売・レンタルします。大人も子供も1年中楽しめる新スポットに、ぜひ皆さんで遊びに来て下さいね。



足湯「家康の湯」

 平成15年12月に完成した、熱海駅前の足湯「家康の湯」は、熱海の天然温泉を使用し、連日多くのお客様にご利用頂いています。熱海温泉組合が徳川家康来熱400年(平成16年3月)の記念事業として取り組んだものです。大人15〜20人ほどが座れる天然木を使用したベンチがあり、座ってのんびりと熱海の温泉が楽しめ、上部には屋根もあるので、雨天時もOK。毎日9時〜16時の間、入ることができますので、お気軽にご利用下さい。

足湯施設「家康の湯
場所 熱海駅前・間欠泉横 ※年中無休
時間 9:00〜16:00
大きさ 横170cm・縦530cm・深さ23cm
温度 約41度(源泉は68.9度)
泉質 ナトリウム・カルシウム―塩化物・硫酸塩温泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)
効能 きりきず・やけど・慢性皮膚病・動脈硬化症・神経痛・筋肉痛・関節痛など
間欠泉 4分ごと約30秒吹上げ

 



熱海遊覧船
 (ゆーみんアルファ)

 平成18年8月24日より、熱海港を一周して海上から熱海の景色を望む観光遊覧船「ゆーみんアルファ」が営業を開始し、発着場所は、熱海港後楽園ホテル先の和田浜南岸壁で、チケットはロープウェイ乗り場のベンダーハウス内で販売している。

 運航コースは、錦ヶ浦・曽我浦などの沖合を通り、赤根崎の手前を折り返し。海上より熱海の景色・真鶴半島・伊東市川奈・伊豆大島なども望むことができ、定員は70人で、ペットも一緒に乗船でき、熱海のクルージングをお楽しい。

発着場所 後楽園ホテル先の和田浜南岸壁
チケット販売所 後楽園ホテル前のロープウェイ乗り場のベンダーハウス内
料金 大人1200円・小人600円 ※3歳未満無料・ペット無料
所要時間 約30分
時刻表 10:00・10:40・11:20・12:00・13:00・13:40・14:20・15:00
臨時運行 夏休み・繁忙期のみ・・・9:20・15:40・16:20
定員 70名
問合せ ベルクルーズあたみ0557-82-0013

 



双柿舎


 近代文学・演劇の発展に大きく貢献し、熱海をこよなく愛し、熱海の地で没した明治の文豪:坪内逍遥の旧居です。
坪内逍遥は、約9年間、荒宿(現在の中央町)に住み、シェークスピア劇の翻訳や、戯曲「名残りの星月夜」、「義時の最後」などを著しました。その間、大正9年(1915)には3,000冊ほどの蔵書を町に寄贈しており、町ではこれらを基に図書館を創設、これが現在の熱海市立図書館の母体となった。

 閑静だった荒宿が騒がしくなり、執筆活動に専念できなくなった逍遥は、水口町に新しく家を建て、大正9年(1920)5月に引っ越し、新しい住まいは、庭も建物も逍遥の設計によるもの。

 樹齢300余年といわれる柿の大樹が2本あることに因んで「双柿舎」(そうししゃ)と呼ばれるようになり、これは逍遥の友人・会津八一が名付けたもので、双柿舎邸内には、塔の形の書庫や筆塚があり、また、会津八一の筆による門の扁額なども見どころとなっている。

住所 水口町(湯〜遊〜バス「水口」バス停より徒歩7分)
通常開館日 毎週日曜日
開館時間 10:00〜16:00  ※入館無料
見学方法 予約不要。運転免許証や健康保険証などの提示をお願い致します。
問合せ 熱海市文化交流課 0557-86-6232
※庭園と書屋のみの公開のため、書屋以外の建物には入れません。また、駐車場・トイレはありま
   せん。

 その他、逍遥ゆかりの地は下記の通りです。
   海蔵寺::水口町(逍遥の墓)
   サンレモ公園::熱海港(双柿舎と熱海市歌の碑)、
   糸川遊歩道::中央町(逍遥歌碑)
   サンデッキ::東海岸町(逍遥句碑)
   起雲閣::昭和町



糸川

 糸川には七つの橋が架かっていて、上流から泉橋、御成橋、新柳橋、桜橋、茶川橋、柳橋、渚橋。

泉  橋

熱海の東銀座町通りから右に曲がり、小沢の湯を左に、大湯を右に見て少し行くと泉橋が糸川に架かっており、橋の袂には古くから和菓子屋「延命堂」があり小さな祠を祀ってある。
御成橋




江戸の昔、徳川家康は今から四百年前の慶長9年3月3日に熱海の温泉に入りに来た。お湯がとても気に入った家康はそれからは熱海の温泉の湯を汲み江戸まで運ばせたということで、御成橋の欄干には家康の歌碑が刻まれて、今も熱海温泉の守り神、湯前神社の例大祭には熱海市長たちがその頃の衣装を着てこの朱色の「湯桶」を運ぶ[湯汲み]行事が続けられている。
新柳橋

柳のレリーフがあるこの橋は御成橋のすぐ下流にあり、界隈には落ち着いた風情のある店が軒を連ねている。
桜  橋

熱海銀座からの浜町観光通りが糸川と出会う場所、その名のとおり「桜橋」の欄干には桜のレリーフが刻まれて、すぐそばに坪内逍遙の歌碑がある。
茶川橋


国道135号線が糸川を渡る場所でございます。橋の上は「銀座」のバス停となっており、ここには遺伝学研究所にも品種登録され早咲きの桜として1月に満開になる熱海桜を始め、いろいろな種類の桜が長い間楽しめる
柳  橋



欄干が波をモチーフにした大胆なデザインの美しい橋で、「焦がし祭り」は熱海の来宮神社のお祭りで厄年の天狗が無病息災を願って「麦焦がしを蒔く」という奇妙なもので小さな子供たちは恐ろしくて泣き出してしまう。「熱海っ子」は子供の頃から町内会の山車に乗り、お囃子の太鼓をたたいて育つ。
渚  橋 糸川が熱海の海に注ぐ所、この辺りに海鳥の姿もよく見られる。

 



 みんなと別れてからニューフジヤホテル前を通り、本町商店街と交差する交差点角には風変わりな8角形の2階建ての“ときわぎ銘菓店”を見やり、交差点を過ぎると、やや下り坂の商店街は土産物屋が半分以上で、そぞろ歩きの観光客も多かったが1時間少々の時間の中で、国道135号線を横切って海岸まで行き、右にに曲がって渚町の昔はチョット風が強いと堤防を乗り越えてきた水しぶきが懐かしい。今は沖合いに防波堤の護岸が出来て波静か。

 糸川の渚橋を渡り、親水公園や沖合いの堤防を眺めたりして、初川まで来て右に曲がった。直ぐに国道135号線まで来て横切って、更に川沿いを遡って湯めまちをどり「華の舞」・熱海芸妓見番歌舞練場まえから、清水橋のある清水町商店街を横切った。昨日はここよりも先の清水町と和田浜北町の境の交差点まで昼飯処探しできたが、なくて止む無く戻って“Lydian+4”という風変わりな佇まいの店に入った。

 交差点を過ぎると川も遊歩道も左にカーブして右にはマックスバリュの大きな建物があるT路地に出た。突き当たりは熱海郵便局だった。左隣には静岡県熱海総合庁舎の建物が並び建っている。左に行くと行き詰まりのようになって二手に分かれると道半分以下の細い道になってしまう。折り返してマックスバリュ・イオングループが全国で420店舗展開しているスーパーマーケット。食品を中心に毎日の暮らしに必要な品々を販売をしている。

 その前には落ち着きのある木々の間に垣間見る純日本風2階建て家屋が気にいってしまった。緩やかな坂を上ると三平荘・静岡県熱海市水口町1-7(来宮から徒歩約11)、客室13室の
うち、7家族が投宿していた。家族が投宿していた。緑豊かな景色を見ながら、リニューアルした露天風呂で半身浴も楽しめ、ウッドデッキから望む半露天風呂もある。「熱海は東京の奥座敷」と、もてはやされたころの経営方針を貫いている旅館も、何軒かはある。水口町の高台で、昭和23年から旅館業を営む、国際観光統計指定旅館・静岡県という文字も見られる。

 マイキャッスル熱海があって熱海街道の交差点左先に岡本ホテルがある。まだまだ時間はタップリあるのでホテル前にある熱海市総合福祉センターの玄関先を覗き、左横に入口のある熱海市文化会館、その中には熱海市中央公民館・熱海市立図書館・熱海市少年補導センターなども入っている。中に入ると“初代お宮の松”の根株が陳列され、その上には額に入った昭和22年頃の枝振りのいい初代お宮の松が波打ち際から、支え棒に支えられ波消しの大きな石の上に張り出している写真を見てきた。

 ホテルには1時30分時前に戻って来た。フロントでバスの時間を確かめ、臨時の出発時間までの休憩に宛がわれた昨夜のカラオケを唄ったクラブへ上がって行くと、我々の仲間だけ8人が寝そべっていたりして寛いでいた。暫し時間はあるので昨日どうしても見つからなかった露天風呂を探しに出かけた。寝起きをした棟ではなく、コンパニオンと空騒ぎをした宴会場の屋上にあった。屋上に出る階段脇には前足を上げて立ち上がろうとする白馬のモミュメントがあり、まず男湯の露天風呂の脱衣所と浴槽を眺めて、海岸方面を眺めると初島がハッキリと見え、左に目を移すと“Nuw Fujiya”の建物が東海岸を塞いでいる。

 入口の違う女湯の露天風呂も眺めてきたが、幾分作りも貼ってあるポスターも違っている。時間も2時10分前だったのでエレベーターを使ってクラブまで下りみんなと一緒にフロントに行き預けてあった荷物を受け取ってバスの待っている道路まで行き乗るバスを探したが何処にもない。再びフロントに出向き、話をすると一緒になってバスまで来てくれて、係員に乗るバスの手配をして貰いバスに乗ったが、空いてる場所に思い思いに座ってバスは発車した。

 糸川の御成橋を渡り、変則十字路の左先内田耳鼻咽喉科・右先静岡銀行を右折してニューフジヤ前を通り、交差点左角の八角に見える和菓子店”ときわぎ”で、本町通りを横切って国道135号線まで途切れなく続くお土産店を後にして左に曲り、お宮の松前を通り、100mも行き右にはいると熱海海岸自動車道(通称・熱海ビーチライン)に入り、波静かな海岸線をチョット行き料金所を通過し来た道を帰路についた。

熱海ビーチライン起点:足柄下郡湯河原町門川(静岡県境)・終点:熱海市東海岸町・延長: .1km)

 相模湾の海岸沿いを通る快適な観光ルートであり、さらに並行する国道135号線のバイパス機能も持つ。国道135号は熱海市泉門川から熱海市東海岸町に至る区間では坂やカーブが多い一方、熱海ビーチラインはほとんど平坦で通行上支障が少ない。ただしのピーク時には大渋滞が発生するため、国道135号や伊豆山を経由した方が早いこともある。k海岸線を通過することから高波等の影響を受けやすく、悪天候時にはたびたび通行止となる。

 経営は三井観光グループのグランビスタホテル&リゾートが行っている。年間通行台数は約380万台。マラソンイベント開催時には車両通行止の措置がとられ、一般に開放されることがある。

 道路運送法を根拠法令とする一般自動車道であるが、自転車・軽車両・原動付自転車・125cc以下の自動二輪車の通行は禁止されている。


熱海ビーチライン(熱海海岸自動車道) 上り

動画(クリック)

 
 国際医療福祉大学付属熱海病院の大きな建物を過ぎると、疎らなになって点在する大会社の健康保険組合の保養所やマンションを見やり、右に漁港が見える伊豆山の水葉亭は左に見える。赤く塗られた橋を通過して、右にカーブすると“うみのホテル中田屋”や“ニューさがみや”の建物があっという間に消え去る。国道135号線も離れたりそばに寄って来たりを繰り返し、暫くは右に海・左に山と続き右に左にとカーブを繰り返し。建物がかなり集まって立っている大黒崎から大きく左にカーブすると海岸沿いにカーブを繰り返し、引っ付くように国道135号線が並行し始めて30mも行くと角川の信号で国道135号線に合流すると、熱海市と湯河原町の境を流れる藤木川に架る千歳橋を渡って、左には入るT路字の千歳橋交差店を行くとJR東海道線の湯河原駅に通じる。

 左に町並み、右に湯河原海浜公園、湯河原高校(2008年3月31日・神奈川県立小田原城東高等学校と統合・再編され、閉校)、吉浜の信号、吉浜橋で国道と真鶴有料道路が二手になって並行し、新崎川の吉浜橋を過ぎ湯河原海水浴場辺りから右にカ−ブし、更に右に90度近くカーブし終わると、国道は街中に入り有料道路は海岸縁を進み福浦のインターとなる。本線は直ぐに真鶴トンネルになり、真鶴町の真下を通過する全長5kmでトンネル部分は1.8kmで、全線が立体交差で、道路交通法による一部車両通行規制道路であり原動機付自転車や軽車両などは通行できず歩行者、の通行も禁止されている料金所。はETCに対応していない。維持管理費を通行料金により賄う維持管理有料制度が適用されている。2008年9月から料金徴収期間は20年間で愛称は真鶴ブルーライン。

真鶴有料道路 (起点:足柄下郡湯河原町門川(静岡県境)・起点:小田原市根府川字片浦・延長:10.7km)

 かつての真鶴町付近から小田原市南部の国道135号(現在の県道740号)は、幅員が狭く屈曲の多い狭区間狭隘区間である。これを解消するため、バイパス道路の建設が計画され、神奈川県により建設が着手されたが、このうち静岡県境から小田原市根府川までの建設が日本道路公団に引き継がれた。この真鶴市街を経由する1期区間は、1959年(昭和34年)9月に開通。現在の真鶴PAは当時の料金所施設の跡に設置されたものであり、このときの開通記念碑がある。この区間は開通当初から無料開放まで原動機付自転車等も通行可能な一般道路であり、自転車にも料金の設定があった。

 真鶴市街を平面交差で通過し、最急勾配も7.6%であるなど、増え続ける需要に対応しきれずに渋滞も発生するようになった。このため3期工事として、真鶴市街の真下を真鶴トンネルで通過するなど全線立体交差のルートを新設することになり1982年(昭和57年)4月に開通した。

 この時から、3期工事により新設されたルートを新道、従来の真鶴市街を経由するルートを旧道と呼び、どちらの経路を選択するかにより通行料金に差が設けられることとなった。これにあわせて料金所が移設され、新道と旧道それぞれに別の料金所が設置された。また、旧料金所跡に真鶴PAが設けられている。

 2005年10月1日の日本道路公団の民営化に伴い、真鶴道路の管理が同年9月30日午前0時に神奈川県道路公社に引き継がれた。同時に、真鶴PAに併設されていた真鶴売店が閉店している。

 神奈川県から、維持管理に必要な経費を捻出する必要性や有人の料金所施設により歩行者等の誤進入を防止する必要があることなどを理由に、新道区間を維持管理有料制度を適用して2008年の償還期間終了後も料金徴収を継続する方針が発表された。

 2008年9月に、旧道は、料金徴収期間の満了を迎え無料開放され国道135号となる。これにあわせて、新道の愛称が付けられることとなり、公募の結果真鶴ブルーラインに決定された。これについては、同じ「ブルーライン」の愛称の路線を持つ横浜市営地下鉄から変更を迫られるなど紆余曲折があったが、当初の決定通りとなった。


 岩インターでトンネル出て左にカーブすると海の上を岩大橋が架かり、左の入り江は海水浴場になっている。国道135号一般道は真鶴駅から、JR東海道線に並行しているが浜越しの高台から道路は九十九折よろしく曲がるくねってトンネル入口にやって来る。トンネルの上を通り海岸淵にカーブしながら、料金所の先で合流する。ブルーラインは間もなくトンネルになり抜け出ると料金所で国道135号線になり家並みはなくなる。

 それからは狭くなった国道を直走りに走って、時々JRの線路が高台に見えたりし、江之浦の町や漁港を見、干上がっているような白糸川を渡り、高台にはJR根府川駅、その先を左に曲がって坂を上がり根府川駅前を通り急坂を上った山の上には、ヒルトン小田原リゾート&スパがあって見晴らしのいいところでもある。

 右は海また海が続き、家並みもなくなりJRも見えたり隠れたりを繰り返し、家並みが見えるようになって所は米神地区で小さな防波堤も見える。暫くはJRと並行しJRがトンネルに入り出てくると石橋地区で、再びトンネルに入り出たところは料金所の手前で、国道135号一般道の下り線が有料道路を跨いで下り線に合流する。この近辺の一番難所の渋滞個所。一般道は真直ぐ、西湘バイパスへ行く有料道は右側車線へ通行区分をかえる。

 料金所を通過し、国道135号線早川の町を挟んでJR東海道線、有料道路は高架になり見通しはよく、さらに、その奥一段高い所を新幹線が、在来線よりも良く走り抜けてゆく。真下には漁港があり防波堤の工事もしている。上り坂になり西湘バイパスと箱根への早川インターチェンジに入り、左にカーブして下り早川の左岸を走って、やがて、早川の上でターンパイクの入口が左に分かれ、すぐに、小田原にしインターが現れる。

 右のカーブしながら小田原厚木道路に入り、国道1号線を跨ぐと風祭トンネルに入った。結構長いトンネルを出ると右にカーブし、右側山の中にも拘らず道路を挟んで1軒ずつ並んで細長く続く家並み、そして住宅の密集地になり小田原市荻窪周辺地区だった。そして、左にも家が密集してくると小田原市久野周辺地区で300mも右には小田急小田原線が走り足柄駅がある。

 ほぼ酒匂川の支流狩川まで並行に走り、小田原市蓮正寺周辺地区で小田急と交錯して入れ替わり、真反対方向に向かい酒匂川を渡って小田原東インターの飯泉周辺地区の工場地帯を走り、小田原パーキングを通過し、更に右に大きくカーブするとJR御殿場線やJR国府津車両センターを横切り、右にはJR東海の東海道新幹線の16両編成も目にすることが出来る。

 新幹線と一番近づく国府津周辺地区では100m強になり、弁天山隧道、新幹線は弁天山トンネルとなり、やや新幹線のトンネルの方が長く、出た辺りから両者は離れ出すも二宮インター、そして、大磯インター、平塚料金所ぐらいまでは、離れても500mぐらいだが、山の中で見かける事もなく次第に離れていった。料金所手前から辺りは開けてきて田園風景が、やがて、料金所を境に家並みが続き始める。

 左側には区画整理の出来た分譲地が広がり、金目川を渡ると変形で田園地帯のど真ん中に平塚インターを過ぎても家屋は点在し、平塚市岡崎周辺地区の矢崎橋を渡り、右にカー付し始めると左側には田畑の中に住宅が並び始め、右側は田園が続いている。再び田畑の方が多くなる平塚市小鍋島周辺地区の城所跨道橋下をくぐると、スッカリ田園に逆戻り、伊勢原市上平間周辺地区に来ると、伊勢原インターとなったが、城所跨道橋との丁度中間当たりが市境だった。

 有料道路を挟んで沼目地区で右は田園、左は、沼目6丁目、5丁目と並んでやがて小田急線伊勢原駅に通じる。ほぼ直線を800mも行くと沼目周辺地区の跨道橋下を通過して、右に90度近くカーブして右に自修館中等教育学校の白い校舎、そこと通じる歩道橋、左に伊勢原市石田周辺のマンションや一般住宅が密集した右には石田小学校の体育館や校舎が並び、左右は家屋が並んで伊勢原の東成瀬と厚木市の愛甲周辺地区を取り持つ歩道橋辺りが市境になっている。

 500m足らずで西厚木インターとなる。右の大きくカーブすると正面には厚木インター付近に建つ高層ビルが迫り来る。厚木インター付近には料金所もあって、東名の下を潜ってループ状に回転して、東名の本線に午後3時32分に入線。相模川を渡り海老名サービスエリアには37分に到着。56分に出発し掘割式の高速は最初の古久保橋下をくぐり、次から次と潜り抜ける橋は数知れず相模本線の相模大塚駅付近を通り、渋滞で有名な大和トンネルを過ぎると、チョットばかり低速で走っていたバスもスピードを上げて走り出すと、間もなく横浜町田インターとなり4時6分に国道16号線下から左車線に寄り一回りして料金所を3分後には通過して第一跨道橋を渡り国道16号線に入った。反対側に600mも行くと国道246号線厚木街道になる。

 横浜市緑区から川井浄水場入口手前で旭区に変わり、右にカーブし終わると右にはパチンコグランドホール上川井店の辺りから上下線が少し距離を開けだして、八王子街道と交差する上川井インターとなり、左にカーブすると下の国道16号線合流し通称保土ヶ谷バイパスと名前が印されている。緩やかな右カーブが長く続き左のカーブに入ると中原街道と交差する下川井インターになった。

 保土ヶ谷バイパスは立体になった上を通り抜け、右には二俣川ニュータウンの団地が見事にマッチ箱を並べたというように何時までも続き、軽く右にカーブしながら左に今川公園(横400b・建て00b)を過ぎ、カーブが反対に左になりだすと厚木街道と立体交差する本村インターになった。600m先には東海道新幹線に上をまたぎ、左近山入口・南本宿インターと混んでいる東名を走るよりも、回り道ではあっても“急がば回れ”とばかり通行はスムーズで大変良い。道路も緩やかなカーブが続きUR都市機構左近山団地がひな壇のように3km弱続く中頃で保土ヶ谷区にはいる。そして、新桜ヶ丘インターそしてアンダーパスを通過し、2つほど跨道橋下を通過すると横浜新道と交差する保土ヶ谷インターで4時19分横浜新道に入った。

 横浜新道の藤川インターを越し歩道橋を過ぎると右には保土ヶ谷公園の野球場と1つの跨道橋下を通過し、星川入口、水道道、相鉄本線、帷子川、八王子街道、200m余りのトンネル内では峰岡入口、常磐台出口の国道1号線には行かずに、そのまま横浜新道を走り保土ヶ谷インターで、第三京浜に入り国道1号線を跨ぎ、三沢公園を右に見ながらインターを出て一般道に入った。

 右側は三ツ沢公園左側は急坂にから見える民家はひな壇状になって横浜特有のアップダウンの厳しい地形に建った家が続いている。急坂を下るバスも西区に入っている。首都高速神奈川2号線も市民病院を過ぎると地下に入る。急坂のカーブも浅間下交差点に来ると治まり、新横浜通りになり新田間川の新田間を渡り、岡野交差点まで行き左折して、一の橋交差点で新田間川沿いに内海橋、地下鉄ブルーラインが地下を走る横浜駅西口に4時29分、ここで下りる乗客が下りると、バスは直ぐに発射した。

 横浜駅西口インターから入線して、JR東海道線・京浜東北などを跨ぎ、首都高速神奈川2号三ツ沢線から左にカーブして首都高速神奈川1号横羽線に入り、東神奈川出入口から暫くして運河沿いを通過して、運河に架る富士見橋辺りから貨物線が右側に沿って、子安の出口まで国道15号線と50m足らずの距離を隔てて子安入口まで続き、運河右に折れるまで続いたが、国道と貨物線は真っ直ぐに進み首都高速横羽線は右にカーブしてわかれた。

 生麦料金所、生麦出入口、そして、右から来る大黒線と合流し、何時しか産業道路の上を走り鶴見大橋を渡った。JR鶴見線の上を跨ぎ、汐入出入口、浅田料金所、JR鶴見線が近づき、駅前入口、南武支線や右には浜川崎駅も見える辺りから幾分はなれた。浜川崎出入口を過ぎた辺りから接近して横並びになり、浜町4丁目当たりをピークにして左にカーブしても横並びは変わらない。桜本小入口、川崎市川崎区池上町周辺までピッタリ横付け状態だった鶴見線が右にカーブして離れていった。

 右に池上新田公園、左に川崎臨港警察署、産業道路出来野交差点の歩道橋を頂点に下左カーブして京浜急行大師線を跨ぎ、左側の新しく出来たループ状の出入口。右側には大師料金所、多摩川を渡り東京都に入る。羽田空港を離発着する飛行機が手に取るように見え、京浜工業地帯のど真ん中を通り過ぎてきたが、大田区の中小企業のマッチ箱のような家屋が真下に見え、趣が変わってきた六間掘緑地上を高速は通り、京浜急行羽田線を跨ぎスッカリ住工混在の羽田4丁目一帯から羽田出入口の環状8号線、右にカーブして南前地掘緑地の上から水路の上へと変わり、左は東糀谷の住工混在の町並み、右は羽田旭町の環状八号に面した荏原製作所本社や工場、ホテルJALシティ羽田東京などの他にも工場があって、海老取川を渡るとモノレールが見え地下には整備場駅もある。羽田空港島でB滑走路の西端もになる。

 この一帯は、運輸関係の建物が目白押しでどの建物がどれとは分からないが、国土交通省航空局管制保安部運用課飛行検査室、海上保安庁羽田航空基地、羽田特殊救難基地、総合空港施設ビルも3棟建ち、日本航空整備ハンガーのジャンボ・大型機用の建物が並び、更にANAの機体メンテナスセンターなどなど主だったものがあり、空港島の端を平行に走るモノレールとは一緒になって大森5丁目の森ヶ崎水再生センターや蓋を被せたような公園を左に眺めながら、右にカーブし昭和島を二分するように高速は走り、昭和島ジャンクションになる。左は高速1号線、右は高速湾岸線へ合流する。東京モノレールは北部総合車両基地や車両工場がある。左側は碁盤の目に仕切られた工場団地なっている。右側は森ヶ崎水再生センター東施設の広大な敷地に水槽が規則正しく並んでいる。

 バスは高速1号線を走り平和島に渡った。ジャンクションで右に行く高速の下をモノレールは1号線といくらか距離を開けて平行に進んで、平和島物流センターの建物の向こうに隠れ、再び建物陰の先で見え始める下は環七通り、高速は環七が上を通りジャンクションになっている。並行する一般通りは海岸通り、左側は平和の森公園、木立に中には太田区立平和島公園温水プールや野球場もあり四方から行える4面のグランドもある。右側は倉庫群が建ち並んで前面の建物以外は全く見えない。

 平和島陸橋下を潜ると右には高速に並行した平和島パーキングエリアがある。平和島料金所と上下線の出入口と左には4つのビルで平和島競艇場は見えないが、高速は左にカーブし始め勝島南運河に架る勝平橋の坂を上がると良く見える。橋を渡り切ると右にカーブしながら、右には大井競馬場のダートのコースも見え左側はしながわ水族館、しながわ区民公園が第一京浜との間にあり、第一京浜の鈴ヶ森インターから回りこむように上がってきて合流するまで続いている。しながわ区民公園はインターの誘導路下を抜けて、新浜川橋まで細長く続いている。広い広い競馬場も関連施設の建物を含んでここまで続いている。モノレールは一旦離れて、反対側の競馬場東側京浜運河沿いに、そして運河の先には大きな緑地帯になっていて、せせらぎの森・太田スタジアムを含む6面の野球場・大井埠頭中央海浜公園・大井スポーツセンター・スポーツ森・なぎさの森などを含む中央公園、更に隣には湾岸道路の中央部分には高速湾岸線横には東海旅客鉄道第1・第2車両所新幹線検修庫、東京貨物ターミナル駅、JR貨物の4棟の大きなビルが建ち並び、更に東には海運会社のビルが建ち並んで海が見えると大井埠頭になる。南には、東京港野鳥公園、更に南には東京都中央卸市場・太田市場とつながっている。

 左jに勝島運河、右の倉庫や運輸関係の建物が建ち並ぶ中を通り抜け、海岸通りに別れを告げ運河を渡ると警視庁鮫洲運転試験場でモノレールと並行になり、対岸運河沿いの京浜運河緑道公園が続き、国道357号線湾岸道路の八潮橋、そして高速湾岸線の大井ジャンクションから首都高速1号線に入線してくる下を過ぎ、品川シーサイドのマンションやホテルの建ち並ぶ横を掠めるように進み、北部陸橋下を通過すると高速は運河の中になり、品川埠頭橋で天王洲アイルに入り、商業ビル・マンション・ホテルなど建ちなんで、右側は運河越しの品川埠頭で、物流倉庫やコンテナターミナルと港清掃工場と続いている。

 高浜運河の天王洲大橋を渡ると港区となる。右には報知新聞社やキャピタルタワーなどのビルが建ち、左は東京海洋大学キャンパスは一面に広がっていて、運河を越して500mも行くとJR品川駅も近くにある。港南小中学校のある港南交差点を過ぎると新幹線のJR東海東京車両基地から引込み線が上を跨ぎ、そして、ずっと並行してきたモノレールも上を跨いで左に入りJR田町駅近くまで行き、JRの線路に沿って浜松町駅手前でJR線を跨いで世界貿易センタービルに中に消える。

 五色橋の水門先には高速11号台場線のループ橋が見え始め、芝浦埠頭・日の出埠頭、浜崎橋ジャンクション、左の旧芝浦恩賜庭園右の竹芝桟橋、旧都立三商(現・芝商高)、上を跨ぐ新交通のゆりかもめ、そしてこんもり茂った浜離宮公園、正面から左に見える汐留再開発で出来たツインビルを初めとした大企業の本社ビルが並び、その一角には日本テレビの社屋もあり、ビルの間からはJR新橋駅やゆりかもめの始発新橋駅舎も見える。

 高速道は二股になり、左は新橋土橋付近でJR線沿いに東京高速道路が日比谷付近まで行き、晴海通りを過ぎ有楽町マリオン・有楽町イトシア・東京交通会館などがJR線の間にアンコになり、西銀座ジャンクションで右は高速1号線京橋ジャンクションに向かい、直進する高速は外堀通りの地下に入り東京駅八重洲口出入口を過ぎ、首都高速八重洲線と名は変わるが、そのまま地下を進み日本橋川に架る呉服橋手前の川に沿うように行き、常磐橋門跡からJR山手・京浜・東北・長野新幹線の地下から神田橋ジャンクションで首都高速都心環状線と合流する。

 一方こちら首都高速1号線は、地下に入り汐留トンネルに入った。ラジオの音声も唯一途切れる場所でもある。旧築地川を改修して道路に替えたので掘割になっていて、挙句高層ビルだらけで昼なお暗きと何処かでいわれるような都心の谷間で、川の流れのままのコースは油断が出来ない。国立がんセンター中央病院や新橋演舞場などが両側にあって、銀座で入口、三吉橋右には中央区の区役所もある。

 新富橋、京橋ジャンクション、出口方一般道に出て、昭和通の宝町・中央通りの京橋・外堀通りの鍛冶橋交差点を通過して、東海道新幹線・東海道線・山手線・京浜東北などの高架下を抜け、東京国際フォーラムを右に曲がって、東京丸の内中央郵便局前でバスは止まり全員が降車した。我々9人も降りてJR東京駅南口から山手線に乗り、JR秋葉原で総武線に乗り換えJR両国駅で降りた。

 駅から1分予約してあったチャンコの霧島へ直行した。エレベーターで案内された部屋に行き、ビール乾杯、後は好きな飲物でチャンコをつつきながら盛り上がっている所に、予期していなかった陸奥親方(旧大関・霧島)がひょっこり各部屋を回りしながら顔を見せた。無言で現役時分と全く変わらない顔つきだった。デジカメを向けると気楽に応じるサービスまでして戻っていった。

 まだまだ飲物もつまみのチャンコも残っているので、最後のチャンコおじやを食べるまで昨日今日を振り返ったりしながら駄弁り、おだを上げて来年の当番幹事の大締めでタクシー3台に分乗して八広まで帰ってきて今年の旅行会も終了する運びとなった。

旅行取り扱い
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